社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

「給与を削減するといい人材が集まらなくなる」って乱暴な話じゃないか

 大ざっぱではあるが、タイトルの件について雑感を述べてみたい。

 

 様々な組織において、経営者が従業員の給与を削減するという流れが生まれることはあると思う。特に行政組織に対しては、民間水準に比べて給与が高い、削減せよ、ということがよく言われる。そしてその反論として、「給与を削減するといい人材が集まらなくなりますよ」という理屈が用いられる。

 …正直、身も蓋もない理屈だとは思う。が、ここへさらなる反論をするのは難しいようにも感じる。たしかに給料を減らされたら、その仕事に就く人が減ってしまうよね…とすんなり納得してしまう。

 ただこの理屈には、1円たりとも給与を下げさせないという乱暴な感情が込められている感があるのは確かだ。なので、あくまで身も蓋もないように感じる、その感覚へ主眼を置いて考えてみたい。

 

 やはり、給与を削減すると一口に言っても、本当に人材が集まらなくなったり人材が逃げてしまうような水準と、それくらいでは人材が減ったり逃げたりはしない水準という、2つの水準があるのだと思う。そこで2つの水準を区別せずに、少しでも給与を削減すると前者の事態に陥りますよ、と一律に語ることには、脅しをかけるような意図があるのだろう。その部分で身も蓋もないように感じられるのだと。

 となると、給与の削減でいい人材が集まらなくなる、この理屈は必ずしも正しいものではない。ある程度の給与の削減では人材が減ったり逃げたりすることはないわけで、その削減幅までは給与を減らすことはできるはずだと、そうした反論をすることができる。

 

 ただ難しいのが、「ある程度の」給与の削減という、その一線がどこにあるのかがわからないことだ。これを明らかにするには、壮大な社会実験が必要になるだろう。

 ここまで給与を下げても人材が減ったり逃げられたりはしない、これ以上給与を下げると人材が集まらなくなったり逃げられたりする、社会実験が実現すればその一線の目安をつけることができる。しかし現状ではそのような社会実験は見当たらないため、そこに根拠を求めて冒頭の理屈へ反論するのは難しそうだ。

 

 しかし少なくとも、給与の削減でいい人材が集まらなくなるという理屈は、先に述べた「一線」を考慮していない乱暴なものであることは明らかであって、そのことを指摘すればよいのかと思う。

 

給与削減・退職金削減に備えた公務員のためのお金の貯め方・守り方

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理想を追求しすぎるから、逆に日本人は英語ができなくなる?

 前回述べた、「理想を追求して目先の堅実さを失う」という心理は、日本人の英語に対する姿勢で如実に現れているなあということも常々思う。

 日本人は英語の文法などにこだわって実践的なスピーキング、ヒアリングができない、ということはよく言われる。これは、そのまま冒頭の心理に当てはまるんじゃないだろうか。文法まで正確に捉えた英語を話そうとして、それが容易なものではないために諦めてしまい、逆に簡単な会話からも逃げてしまう、そういうことなんじゃないだろうか。

 

 外国の方は、少しでも洗練された場にいる人であれば、まずもって英語が話せる。 こちらとしても、英語がわかる前提でもって会話を始めようとする。

 しかし一方の日本人はどうだろうか。社会において一流の地位にある人ならばおよそ英語は話せるだろうが、多少洗練された場にいる程度の人は、およそ英語が話せないと言っていいだろう。

 

 しかし、英語圏の出身でない方の英語を聞いていると、文法を無視しているということはないが、本当に簡単でわかりやすい単語を主に使っている。そうした方からのメールの文章などを読もうものなら、本当に中学生の教科書のレベルと言ってもいいくらいだろう。

 

 だから、日本人の英語ができないというのは、ただ単純に意識の問題なのだと思う。正確な英会話をするという理想を追求して、それができないから、簡単な英会話をするという目先の堅実さからも逃げてしまうんだと思う。

 とにかく、深く考えずに簡単な英会話から始めればいいのだ。その意識が幼少期教育から育まれていくことを切に望む。

 

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

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理想を追求しすぎて、目先の堅実さが失われるというジレンマ

 この話も、以前に一度書いたことがある。阪神大震災の復旧で、一部の復興を手助けすれば全体にとって不公平になる、という驚くべき理屈が取られたという話に基づいている。理想を追求して目先の堅実さを失うということなのだが、このような大きな話においてだけでなく、日常の場面でもこうした心理はしばしば見受けられるように感じられる。

 学生あたりならばよくあることだと思うが、自分の理想が固まるまでは何も動き出さない、という心情があったりするだろう。そして、何も動かなかったことは間違いで、できることはやっておけばよかったと後悔したりもする。目先の堅実さを失ったということで、これがこの心理にあてはまる。

 

 ただ、成長途中の学生であればいいのだが、会社の人間であったりそういう大人がまだこんな話をすることが多いように思われるのだ。

 わかりやすい話は、仕事相手に何かを伝える際に、10のうち10すべてを伝えようとすることだ。もちろん伝えられる側としては、一度に10を伝えられても煩わしく思ってしまって処理しきれずに、結局2や3しかやってもらえないということがあったりする。こうした話は実に残念だ。

 最初に伝える量は6や7に抑えることで、5あたりを確実にやってもらえばよかったのだ。細かい部分までは最初から伝えず、要点を絞ってわかりやすくするということでもある。細かい部分は後から追加して対応してもらえばいいのだ。(もちろん、それができないときは除くとして。)

 

 構成員がこうした心理にこだわってきた結末として、細かいことにはうるさいが重要なことが抜け落ちている、そんな矛盾を抱えた組織というのもあったりはしないだろうか。もはや、細かいことにうるさい組織というのは、およそ組織として重要な部分を見落としている、それが一般的な真理として語れるんじゃないかと思う。

 

 また、再び行政組織の話をしたい。行政組織でこの心理が現れるところで特に弊害が大きいと思うのは、予算の査定と評価である。予算の査定にしろ評価にしろ、とにかく細かい部分まで含めて臨もうとするのだ。もちろん理想としては、国民の税金に係る部分だから1円単位でチェックを入れたいと思うのだろう。しかし人間の能力を考えれば、そんなことは全く現実的でない。

 むしろそうした細かい姿勢で臨むことで、予算の割と高額な部分で手落ちがあったとしても、それを見落とすということが想定されるのだ。特別会計や補正予算といったものがザル気味に語られたりするのも、そうした見落としが積もり積もってのことなのだと思う。

 対照的に一般会計は1円単位でのチェックが行われているわけで、これは本末転倒以外の何者でもないだろう。

 

 これもまた「やりがい論」「できる人論」と同様なのだが、理想を追求して目先の堅実さを失う、こんな子供じみた心理を大人が持っていてはいけないのだ。目先の堅実さを優先するべきであって、そうすることで大きな手落ちが生じることを確実に防止する、それがしかるべき振る舞いというものだろう。

 

危機の二十年――理想と現実 (岩波文庫)

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日本の男性には、妻を使用人とみなすかのような心理が存在してないか

 タイトルだけで、およそのことは把握頂けるかもしれない。日本人男性によく見られる、まるで妻を家庭の使用人としてみなしていると疑われるような心理のことである。

 

 結婚するまでずっと実家暮らしで全く家事をしたことがなくて、結婚してからも妻に任せきりの旦那、というのはよくある話だ。こうした旦那は、家事への適性が全くないという可能性もあって、諦めの気持ちが芽生えたりもする。

 ただやっかいなのが、学生のときは一人暮らしをしていたはずなのに、結婚すると全く家事をしてくれないという旦那である。一人暮らしの経験があれば、洗濯掃除、炊事の一部くらいは身につけているはずなのにである。自分もそれなりにはできるはずなのに、妻がいるならそれを任せきりにするというのは、明らかに妻を使用人とみなしているかのようだ。

 

 そしてこんな構図は、一般社会においてもうかがえる。使用者と従業員における関係だ。使用者は、その組織で行う業務において人を使うのだから、自分もその業務を行った経験はあるはずなのだ。経験があって一通りの内容を把握していないと、まともな指示を出すことはできないわけである。

 その中から一部の人は、そうした現場の経験を早々に切り上げて、今度は人を使う側に回ろうとする。組織の制度により、幹部候補が一時だけ現場の経験をしに来ただけ、ということもあるだろう。その後は自分は指示を出す側に回り、実際の作業、現場での作業は他の人にやらせる、ということになる。

 

 このように人を使う側に立つというのは、確かに一般社会においては目指したいと思われるものだろう。しかしこんな感覚が、一般社会のみにとどまらず、家庭内にまで持ち込まれているように感じられるのだ。その結果として、旦那が妻を使用人のようにみなす姿勢が成り立っているように思える。そのような旦那は、その気になれば自分も家事はできる、けどつまらない作業だから妻を使ってやらせてしまえ、なんてことを思っているのではないだろうか。

 

 人を使う使われる、利用する者される者、なんて関係は冷たいもので、一般社会の中だけにとどめておくべきものだろう。家庭内にまでこんな関係を持ち込む考え方には、やはり卑しさを感じずにはいられない。

 

 

育児中の女性へ安易に残業を求めようとする上司はいただけない

 タイトルについて、自分は男性だが二人の育児をしている立場から、女性目線に立った提言をしてみたい。

 

 仕事においては、業務の進捗が少しばかり重いものになったからといって、育児中の女性に対しても「子供の世話はあるかもしれないけど、この状況なら残業もやむ無しで…」みたいな雰囲気が安易に生み出されることはないだろうか。

 しかし、小さな子供がいるとそうなのだが、子供を預けっぱなしにして残業するというのはまず不可能だ。保育園は、親が1時間も2時間も残業することを想定した閉園時間にはなっていない。(そうなっているところもあるが保育料は高額だ。)また子供が小学校に上がってから、学校が終わった後に学童保育へ預けていたとしても、これも親が1時間も2時間も残業することは想定されていない。

 

 なので育児中の母親は、まずもって残業をすることはできないわけだ。そこへ上司が残業を求めるにしても、旦那が仕事を切り上げてお迎えへ行けることか、親が代理でお迎えに行けること、これらの点を厳正に確認してからでなければならない。そしてそれが不可能なら、残業を求めてはいけない。

 上司がなんとなくの気持ちに流されて、仕事が大変になりそうだし残業を…なんてことはまず言ってはいけないのだ。育児中の母親へ安易に残業を求める上司は、保育園や学童保育の時間への知識を持っているのか、非常に疑わしい。たぶん持ち合わせていないのだろう。

 

 業務の進捗が重いものになったからといって、育児中の女性には残業を命じないように、上司が冷静さを保つ必要があるのだ。こればかりは、育児などの事情のない人で頑張って処理してもらうしかない。また以前に書いたような、部署の範囲や管轄業務の枠を取り払って、応援人員を頼むということも考えられる。

 

 ただ、こうした育児中の女性の保護を求めたとき、決まって出てくる理屈がある。「不公平だ」… 反吐が出そうな理屈である。育児中の身なのだから、そうでない人と比べて不公平になるのが当然ではないだろうか。なぜこの両者をあくまで同等で語ろうとするのか、全く理解することができない。

 

 また、上の内容は理解のない男性の上司によるものを想定したが、既に働きながらの育児を終えた女性の上司がこういうことを言い出す場合もある。同性である分、その嫌味が強烈なものになったりもする。

 しかし、そうした人は昔ながらの価値観により、親の協力を容易に得られていたか、現代の働く女性より短時間の労働が認められていたとか、何らかの有利な点があったはずなのだ。そのことを忘れて、そうした協力を簡単には得られない人と自分のことを同列に語るのも、なかなか理解できない考え方である。

 

 現代においては、育児中の女性も相応の労働時間で働くものであり、子供を保育園などに預けられる時間も限られる。旦那や親の協力を得ることも容易ではない。これらの点を考慮すれば、育児中の女性には原則残業をさせないよう配慮することの必要性が、自明の理として導かれるわけだ。上司たちには、そのことを心に刻んでもらいたい。

 以上のことは育児中の女性を念頭に置いてきたが、自分のように保育園のお迎えを行う男性であっても同様のことは言える。奥さんがどうしても残業しなければいけない、親の協力も頼めない、という日があったときには、残業をすることができない。こうした場合に、つまらない流れで残業を求められそうになっても、全力で断っていくつもりだ。

 

共働きファミリーの仕事と子育て両立バイブル (日経DUALの本)

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部下を監視して業務管理を行うのはまずいことじゃないだろうか

 上司が部下の業務管理を行う際、その適切な方法を一口に述べることはできない。ただ一つ、部下の「監視」を行うことが正しいものかどうなのか、問題提起してみたい。これは大きく意見の分かれそうなところなので、皆さんのご意見を頂ければありがたい。

 

 上司は部下の仕事に取り組む状況を見て、業務量の増減を図ったり業務の分担を考えることで業務管理を行う。しかしあくまで、上司が業務管理を行うにあたっては、部下が上げてくる資料のみを判断材料にすべきだと個人的には思っている。

 どういうことかというと、部下が上げてくる資料だけでなく、業務中の細かな行動までを判断材料にしようとする、そんな心理が上司の中には存在するように思われるのだ。業務の本質に関係のないような、見かけ上で現れるものを捉えて判断を行うということである。

 

 業務の繁忙、閑散への向き合い方の話でも述べたが、業務に閑散期がやってきた場合は、雑務をこなすとか、雑談をするなどの形で凌いでいくのが適切な姿勢だと考えている。そこへ、雑務をしていたり雑談をしていることを見かけ上で捉えて、仕事が少ないのか?という否定的な目を向けるのが正しいこととは思えない。

 また仕事をしていれば、パソコンの画面を見たり机の上の資料を見ながら考え込んで、動きがフリーズするような行動もあったりするだろう。しかし動きがフリーズしていることを見かけ上で捉えて、ちゃんと仕事をしているのか、業務量が少ないのか、といった判断をするのもいかがなものかと思う。ひどい場合は、パソコンや書類の前で動きがフリーズしている人に対して、何を見ているのかまで覗き込んで把握しようとするような心理も存在する。業務上のこととはいえ、やはりプライバシーの側面はある程度考慮すべきであって、そこを容易に踏み越えようとする考え方は、卑しいものに思えてしまう。

 まあ、どこぞの課長かが、業務中にソリティアをしていたのを見られて減給を受けたとか、そんな話はあったが…。それでも覗き込みを行う対象は、そうした問題性が明らかに認められる職員に限定すべきで、一般的な職員にまで覗き込みを行うのはご法度だろう。

 

 人間が仕事をしているのだから、仕事中に雑談をすることもあるし、考え込んで動きが止まることもある。ましてや雑務をこなすことは、業務上で必ず必要になるものだ。そういったものを表面的に捉えて、否定的な目を向けるというのはどうにも理解できないし、仕事をする上での息苦しさを生むことにしかならないと思う。

 

 雑務や雑談をしている、机上で動きが止まっているなどの細かな行動まで確認するのは「監視」であり、こうした監視は行っていけば際限がなくなる。プライバシーの部分にまで踏み込んだ、人格攻撃にすらつながっていくこととなるだろう。いくら業務管理上の立場があるとはいえ、そんな一線を踏み越えてはいけないと思う。監視によって得たものを業務管理の材料にしてはいけないのだと、個人的にはそう考えている。

  

 

キラキラワードを聞くと、その裏側の事情ばかりを想像してしまう

 理想を追求して現実を放棄する、そんな心理について以前に書いている。タイトルの言葉は何のことかわからないかもしれないが、この理屈が大いに現れているものとして実感できる。そんな話を述べていきたい。

 

 まず、キラキラネームというのは聞いたことのある言葉だろう。子供の名に用いる漢字へ本来にない読みを充てていて、読めなくなっている名前というのが一般的な解釈となる。

 ただ、なぜそんな読めない読みを充てようとするのかというと、一般的な読みでは表せないようなかっこいい響きにしたいとか、おそらくはそんな理想が現れたものなのだろう。そして名前に理想が追求されすぎていると、本人の資質が名前からは分不相応となる、いわゆる「名前負け」が起きる。

 名前が読まれない苦しみに加え、名前負けの苦しみも味わうことになるわけだ。理想を追求することで、現実の面でこのような二重苦を与えることになるわけで、およそ罪深いものである。

 

 そして、キラキラネームの後者の性質になぞらえて考えられた言葉が、「キラキラワード」というものだ。近年、各種宣伝において、やたら響きばかりが先行する、射幸心をあおるようなキャッチフレーズが多いな、とは思っていた。そこへ、こうしたフレーズが「キラキラワード」と名付けられているのを見て、言い得て妙だと感じたものだ。

 

 例を個別に取り上げるのもあれなのだが、大学、マンションなどの宣伝において、「世界」とかそういう言葉が簡単に出てくる。大学の一学生、マンションの一住民が、そうそう「世界」と関係できることはないと思うのだが…。こうした響きが先行するフレーズは、まずキラキラワードと言ってよいだろう。

 

 ただこのキラキラワード、その言葉の由来は、キラキラネームでの理想の過ぎる名付けによる名前負けから来ている。となると、そうしたフレーズの使われた商品は「響きのよいフレーズで飾り立てられているが、実態は伴わない」ということになってしまう。

 実際、先ほどの「世界」という例で挙げたように、実態が伴うことはまずないだろう。キャッチフレーズの響きなどどこ吹く風という普通の大学、普通のマンションがその大半なわけである。下手をすると、普通以下の何か欠陥のあるようなものかもしれないと邪推もしてしまう。

 

 こんなキラキラワードを用いるのではなく、実際の機能や特徴を簡潔に説明する形で宣伝すればいいのではと思うが、なぜキラキラワードという概念が登場するようになったのだろうか。

 大学であれば大学が増えすぎたことによる差別化、少子化による入学者減の食い止め、マンションであれば技術の頭打ちに伴う宣伝材料の減少、などの意識が短絡的に現れたものといったところだろうか。

 

 いずれにしても、キラキラワードを聞かされるとその裏にある実態のなさを邪推してしまうばかりなので、個人的にはこうした概念はなくなったほうがいいと思うところである。

 

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

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