社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

「できる人」認定を受けた人って多すぎやしないか

 前回は、「できる人」の要件について個人的に考えたものを述べてみた。そして、その要件は難易度の高いものになりそうであることを提起させて頂いた。

 ただ、身の回りで話を聞く限りでは、できる人というのがやたら安易に作り出されているような気がするものだ。感覚としては、前回に述べた3つの要件であれば、うち2つを満たしていればもうそれでできる人認定を受ける、といった具合だろうか。

 以下、できる人の要件は前回述べた内容を前提とする旨で了承頂きたい。

 

 「できる人」認定を受けた人へのほめそやし方には、もはや狂気さえ感じる。とにかく神格化したように語られるのだ。そんなに神様が多くいるのなら世の中苦労しないだろう、とでも思ってしまうくらいに。しかし、できる人の要件は3つであって、2つでは満たすことができていないのだ。ここを神格化して語ってしまうと、要件を3つ揃えた人が誰なのかがわからなくなってしまう。

 

 さらには、要件を3つ揃えていても、組織のトップを目指すならばそれだけでは足りない。前回、ある程度出世をしてからは組織への批判を込めていくことが重要だと述べたが、この批判の込め方も、個人の腕が問われることになる。いかに周りを刺激せずにうまく納得させて、同意を引き込みながら進めていくか。ここはもはや方法論で語れるところではない。「運」すらも絡んでくるところだろう。

 

 できる人をほめそやして神格化までするのであれば、このような組織のトップ及びその周辺にまで登り詰められるであろう人へ、その対象を限定すべきだろう。少なくとも、できる人の要件を3つ揃えた人に限定すべきだ。要件が2つあるぐらいの人を簡単にほめそやして神格化していると、聞いている方としては嘘くさいものにしか感じられなくなる。

 

 ちょっと行きすぎかもしれないが、日本人論にも絡めてみたいと思う。おそらく日本人は、子供に対して伝えるような話を、大人になってもまだ言っていることが多いのだろう。できる人認定や、以前に述べた仕事のやりがい論もそうだ。子供に対しては将来の可能性の広さを考慮して、長所を景気よく褒めるのは自然な話と言えるものだが(それでも嘘くさいのはダメ)、しかし大人になっていけば、現実的な視野でものを語らなければいけない。組織のトップに立てて神格化に値するような「できる人」はそういないし、「やりがい」のある仕事も世の中にはそれほどあるわけではない。大人同士の会話ではそうした割り切りが必要であるのに、まだそうした幻想を持ち出すことが多いように思われるのだ。

 

 そうした幻想を安易に持ち出すことは、現実を見誤らせることにしかならないのだと、今回のまとめとして強調しておきたいと思う。