社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

「やりがい論」の先に、やりがいのない仕事をする人への蔑視がある

  しつこいくらい「やりがい」について述べているが、今回も続けて述べさせていただきたい。しかも長文になるがご容赦を。

 

 前回まで、やりがいは他人がとやかく言うものではなくて、日本人はやりがいの概念に囚われすぎている、ということを書いた。

 ここで、やりがいの概念に囚われすぎることが、さらにゆがんだ方向へも働くことにならないだろうか?ということが思い浮かんだので書いてみたい。

 

 やりがいを始めとして、あくまで個人の意思で決めることについて、それを他人がとやかく言っていると、たいていロクなことにはならない。

 おそらくは、個人の決めることについて他人が「こういうことをするのがよい」と言っていると、「なんでこういうことをしないの」「こういうことをしない奴は愚かだ」という意識へと変化していくのだと思う。これは社会心理として往々に生じるものであり、まことに残念なものである。

 

 そして、この心理がやりがいの概念において生じるとしたら…想像できるのは、やりがいのない職業に対する蔑視だ。

 「やりがいのある仕事につくのがよい」と言っていると、「なんでやりがいのある仕事をしないの」「やりがいのない仕事をしている奴は愚かだ」という観念が生まれてしまう。「やりがい論」の行き着く先にこうした観念があるわけで、やっかいなこと極まりないものである。

 

 脱社畜ブログの記事にこういうものがあった。かいつまむとネットショッピングの送料に不満を言う客へ販売者が怒ったというもので、客側が運送業の方へ敬意を払っていないことをよく示す話だった。

 日本では店側へ過剰なサービスが求められているとはよく聞く話だ。そしてこの状況は、「やりがいのない仕事をしている奴は愚かだ」という観念が入り込んでのものなんじゃないかと思う。

 

 運送業や客商売などの仕事は、正直に言ってやりがいという面は薄いだろう。だがこうした仕事をしている方々へ、上記のような「やりがい」論をふりかざすと困ったことが起きる。「お前らはやりがいのないことをしてるんだから奴隷のように働け」という意識が生まれることが想像できるのだ。

 

 実際、上で述べた脱社畜ブログでの話も、こうした意識が結実したもののように思える。「やりがいのない仕事をする人は奴隷みたいなものだ」なんて思っているから、毎日運送のトラックを走らせているのに送料を取るなとか、店は毎日24時間で営業しておけとか、そんな無茶な発想が生まれてくるのだと思う。

 送料を取らないなどあり得ないし、有料であっても運送業の人へいたずらに負担を課すのも気が引けるので、自分はネットショッピングの利用は必要最小限にとどめている。また、24時間営業というのが一般的に受け入れられていることにも、個人的にゆゆしさを覚えている。毎日夕方過ぎまで、一定の客対応をしてくれるだけで十分ではないかと。(もちろん遅くまで店が開いていれば助かることはあります。)

 

 いくらやりがいのない仕事であっても、おそらく大半のものは社会に欠かせない仕事だろう。そうであるならば、そこへ従事する人へ一定の敬意を払う必要はあるはずだ。

 「やりがい論」がかえって悪い影響を及ぼし、やりがいのない仕事をする人へ敬意を払う必要はない、なんて発想が生まれているとしたら、それは大変嘆かわしいことではないだろうか。

 

 こう書いているとなんだか、「やりがい論」が無益どころか、とても罪深いもののように思えてきた。やりがい論というものは、いっそ無くなってしまったほうが社会にとって有益なのかもしれない。

 

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