他人の意思を勝手に推し量る考え方が、社会を残念なものにする
やりがい論と併せて、題目のことにも触れてみたい。
「個人の意思で決めることを他人がとやかく言う」この構図は、やりがい論に限らず他の場面でもしばしば生じているように思える。
この構図がきわめて端的に表れるのは、やはり結婚の話だろう。
結婚はもちろんのこと個人の意思で決めるものなのだが、適齢期になってくると周りにプレッシャーをかけられる、というのはよくある話だ。
このプレッシャーというのも、「結婚はしたほうがよい」という助言的なものが、「なんで結婚しないの」「結婚しないなんておかしい」という観念へ変化していく結果、生まれるものではないかと思う。
また欧米か、という話にもなるが、欧米にはお見合い婚の概念がないというのもうなずける。結婚はしたほうがいいのは明らかであるが、あくまで個人が決めることなのだから、他人がとやかく言うものではないのだ。
また、結婚だけではない。子供を作る話もそうだ。「子供を作った方がよい」これも当然の話なのだが、「なんで子供を作らないの」「子供を作らないと結婚した意味がない」なんて周りが言い出すと、たちまちおかしなことになる。その意思があるのになかなか子供ができない夫婦に対しては、有害なプレッシャーをかけることにしかならない。
このような話をとっても、いかに個人の意思で決めることに他人がとやかく言うことに問題があるか、わかるような気がするのだがいかがだろうか。結婚や子供の話をする際は、あくまで個人の意思を尊重していることを明確に伝えなければならないのだ。
日本人は、やりがいの概念に限らず、「個人の意思で決めることを他人が勝手に推し量る」、この意識が強いのだと思う。村社会の精神というものなのだろうか。
そして、それが他人の蔑視につながり、社会の様々な場面で残念な事態を生んでいる。
話が大きくなってしまった。あまり日本人論を壮大に語るのもあれなので、このあたりで終わります。