「やりがい」は個人が感じるもので、他人がとやかく言うものではない
前回は、欧米の感覚からやりがいというものについて考えてみた。そして、日本人はやりがいという概念に囚われ過ぎているのかもしれない、という一つの視点を提起できたと思う。
そして今回は、「用法」の切り口でやりがいという言葉を考えてみたい。
世の中の言葉には、自分で言ってもいいが他人が言ってはいけない、というものがある。そういう用法として。
例えがあれかもしれないが、未亡人という言葉がこの典型とされ、あくまで自分で言うための言葉となっている。他人があなたは未亡人ですね、なんて言うのはとんでもない話だと。
私の考えだが、「やりがい」という言葉にもこうした理屈が当てはまるんじゃないだろうか。
やりがいはあくまで個人が自分で感じるものであって、他人がとやかく言うものではないと。「この仕事はやりがいがあるだろう?」なんて他人が言うのは、個人の意思を勝手に推し量っているのだと。
そう考えると、やりがいという言葉が一般論化されるのはおかしな話だ。一般論化され、「やりがいとは~」なんて話が語られ出した時点で、他人がとやかく言っていることになる。その行き着く果てに、「やりがい搾取」なんておかしな現象が生まれてしまったのではないだろうか。
もし仮に一般論化するにしても、やりがいを感じるのはあくまで個人の意思に委ねられる、という断りを入れなければならないだろう。
つまるところ、「やりがい」という言葉は、基本的に表に出すべきものではないのかもしれない。仕事に関しては、「生活のため給与を受け取る」という絶対的な事実のみを捉えるのが望ましくて、それ以外のやりがいといった要素をとやかく入れ込むものではないと。
前回述べた、欧米の感覚ではあまりやりがいが強調されていないように見えるのも、こうした意識が浸透しているからこそなのかもしれない。
前回の内容と合わせて結論をまとめたい。
日本人は「やりがい」という概念に囚われすぎている。やりがいはないが毎日勤めているだけで立派という考えは存在するし、やりがいというのはそもそも他人がとやかく言うものではない。