社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

不毛な仕事の押し付け合いをしないために、必要なことを考えてみる

 会社組織における話だが、担当があいまいな業務に関しては、仕事の押し付けの駆け引きが生じる。しかしこの駆け引き、露骨に弱肉強食、強者と弱者の関係が浮き彫りになるため、安易に弱者の側へ回るわけにはいかない。「できません」と言うのは気が引けるけども、そのまま受けてしまうと相手の思うつぼかもしれない。

 

 押し付けられる一方であると、仕事をいくらでも受けてくれる都合のいい人に成り下がってしまいそうで、どうしても抵抗を覚えてしまうものだ。

 しかし対立を続けてしまうと、日々仕事をする上での人間関係にヒビが入ってしまうので、なるべく穏和に解決したいという気持ちも芽生える。解決が遅れると対外的な迷惑がかかるということもありうる。これは見事なまでのジレンマである。

 以下では、個人的に考えているその解決方法を述べたいと思う。あくまで個人的な意見なので、批判等は承知したい。

 

 まず、担当があいまいな仕事について、明らかに仕事の少ない相手が怠慢を示して押し付けてきた場合は、毅然として断ればよい。自身の怠慢で仕事を押し付けてくるのはどうかと思うし、こんなことに応じてしまうようでは名がすたるというものだ。

 問題なのは、仕事量がおよそ同量であったり、仕事量の多い相手が押し付けてきた場合だ。そして押し付け合いの駆け引きは、この構図で生じるのが大半だろう。

 

 こうした場合、仕事がおよそ同量である相手とは、押し付け合いに関して同等の立場となる。仕事量の多い相手だって、その事情を汲んで押し付けを受けるばかりになるのも、なんだか釈然としない。やはりこうした相手とは、押し付け合いに関しては「お互い様」になるのである。

 「お互い様」である以上は、自分が引き受ける理由もあるため、簡単にできませんとは言いにくい。しかし相手はその心理へつけ込もうとしているかもしれないので、拒否したくもなる。

 

 こうした感情をめぐっては、弱者になりたくない、穏和に解決したい、といった思考になんとなく飲まれるのではなく、今までの押し付け合いの記録を取ることで、客観的に判断することが重要だと個人的には考えている。

 押し付け合いが起これば、まずは片方が進んで妥協して受ける。そして、どのような事案で押し付け合いが起きて、どちらが受けたのか。それをしっかりと記録しておくのである。

 

 そうすれば、次に押し付け合いが起きた際に、その記録が大いに参考になるのではないだろうか。同じ相手と押し付け合いが起きた場合は、交互に受けていけばいいのである。違う相手と押し付け合いが起きたとしても、お互いの記録を紐解くことで、今まで受けた回数の少ない方が受ければいいのである。

 

 弱者になりたくない、穏和に解決したい、といった思考はある種本能的なものだと思われるので、こうした思考を少しでも乗り越えるためには、記録という客観的な対応が有効なのではないかと思う。他人とのトラブルにおいて法的な材料としてやり取りを録音するとか、そういった話と同類なのだろう。仕事の押し付け合いにそうした対応を持ち出すのは大げさかもしれないが、なんとなくで本能的な思考に飲まれるよりはずっと賢明だと考えるところである。

 

ゲーム―駆け引きの世界 (東京大学公開講座)

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「皆が管理職を目指すべき」これって日本特有の強迫観念じゃないか

 前回、普通の人が仕事の厳しさを負う必要はないということを述べた。この流れで、普通の人が管理職を目指す必要もないということを述べたいと思う。

 

 普通の人は、そもそも管理職になるうえでの資質が不足している。そもそも人の上に立てるような人間でなかったりする。こうした人には仕事の厳しさを負わせる必要はなく、一定の仕事をこなしているのならば、あとは仕事のことよりも家族のことなどを優先させてあげる、そんな配慮をするのが適切だろう。

 

 しかし日本の組織においては、そんな普通の人まで含めて皆を管理職に、と考えるような仕組みがあるのではないだろうか。だからこそ、普通の人にまで仕事の厳しさが負わされてきたのだと思う。このような意識があると、普通の人までが無理やり管理職に祭り上げられることになる。しかしそうした人に管理職の資質はないわけで、様々な能力が不足している。

 

 また、ここからは行政組織へ特化した話をしたい。皆を管理職にという意識は、必要以上にゼネラリストを生もうとする慣習を生むと思われるのだ。

 管理職は様々な視野から人を使うという立場なので、専門家であるスペシャリストとの対比により、ゼネラリストであることが求められる。すると、皆を管理職になどと考えることで、若手のうちから皆がゼネラリストを目指すように仕向けられる。

 その意識の現れとしてなのか、行政組織ではやたらと異動が多い。スペシャリストとして特定の業務に専念することをほとんど許さないかのような雰囲気があったりする。

 

 しかし、管理職の資質のない人がゼネラリストを目指すよう仕向けられても、その異動の多さを有効に活かすことはできないのがオチである。

 すなわち、異動の多さに「責任逃れ」であるとか、「業務への飽きの解消」とか、消極的な意味合いばかりを持たせるようになるということだ。こんな事態になるわけで、必要以上にゼネラリストを目指させることにはほとんど意味がないと言えるだろう。

 

 また短期間で異動できるとなると、業務への責任意識は薄れる。なら当然のごとく、マニュアルの整備も軽視される。以前に前任者のおかしな優越意識でマニュアルが軽視されることを述べたが、行政組織ではさらに短期間の異動が加わることで、余計にマニュアルが軽視されるのだと思われる。

 

 また中央省庁、霞が関での話だが、天下りなんて概念が生まれるのも、この意識が結実したものだと思っている。「皆を管理職に」なんて思うことで、ある程度までの役職が景気よく用意される。しかしそれ以上の役職はさすがに景気よく用意はできない。ある程度までの役職というのはおそらく課長までを指すと思われるのだが、課長は多くできてもそれ以上のポストはさすがに数多くするわけにはいかない、ということになる。

 

 なので、課長どまりの人が多く出ることになり、そうした人は課長以上まで出世していく人のことを指をくわえて羨むことになる。それが可哀想だから、外部の組織に相応のポストを作ってそこへ出してあげる、これが天下りである。

 出世できないのが可哀想なんて愚かな配慮があるわけであり、こんなことで多額の税金を流して外部のポストを作っているのである。そんな配慮は行わず、そのまま課長に止まらせるか、若手の出世に支障となるならば降格させるか、素直にそうすればいいのだ。

 

 しかしそもそもの問題として、「皆を管理職に」という意識のもと、それほど資質のない人にまで景気よく課長ポストを用意したのいうのが間違いなのだ。それほど資質のない人は、平社員に近いレベルへ止まらせておくべきだったのだ。

 下手に出世せず平社員レベルで止まっていれば、余計なメンツが生まれることはなかったわけであり、出世していく人に対して羨みの気持ちを持つこともなかっただろう。そうしたところにも、皆を管理職にしようとする意識の罪深さがうかがえる。

 

 以上のような事例から、普通の人まで管理職にさせようとする意識がいかに生産性のないものか、よくわかると思う。資質がないのに管理職に祭り上げられて、意識と実態に乖離を生じさせられるような残念な事態は、とにかく改めていくべきものだろう。

 

親会社の天下り人事が子会社をダメにする

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会社での「普通の人」にまで仕事の厳しさを背負わせる必要があるのか

 このタイトルも、そのとおりの内容としてご理解頂けると思う。会社における普通の人については、何も仕事の厳しさを背負うことはないんじゃないかと普段から考えているのだが、この話について述べたいと思う。

 

 やりがい論の話で書いたが、欧米では出世を望んで残業を厭わず働く人と、普通に働いて家族の時間を大切にする人で二分されるというのはよく聞く話である。しかし日本における同様の構図を考えてみると、出世を望む人だけでなく、さほど出世を望まない普通の人までも、残業を強いられたり仕事の厳しさを負わされたりしている…というやるせない状況が思い浮かぶ。

 おそらくこの日本の状況のほうが誤っており、欧米の構図が社会の大前提としても成り立つものだと思う。日本はあえて逆行するようなことをしているのだろう。

 

 ここはやや観念的な話になるが、出世を望んで社会をけん引する人と、出世を望まず家族の時間を大切にする人では、備えている役割に絶対的な差があるだろう。役割に差があるのだから、当然仕事量にも差があるはずなのだ。これは本質的なもので、一般的な真理としても語れるものだと思う。だからこそ、日本において出世を望まない普通の人までも残業を強いられたり厳しさを負わされるのは、本質的に誤ったことなのではないだろうか。

 

 残業を強いられるのも、長時間の残業を厭わずこなすべきという価値観を押し付けられてのことであり、ひどければ残業時間の長さで人事的な評価を決められたりもする。しかし、普通の人は備えている役割が相対的に少ないのだから、無理に残業をしようとしても意味のないものになってしまう。だらだら残業、付き合い残業、ぐだぐだな会議に巻き込まれての残業…全て意味のないものだ。

 併せて、普通の人が多量の業務量を押し付けられているという事態があったとすれば、それはブラック企業、やりがい搾取といった話につながるわけで、これはこれで間違った話であることが言える。

 

 普通の人が休日に関して干渉されたりもする。休日を本当に休日として使うな、休日は自己研鑚の時間に使えなどと言われたり、(過去記事。)休日に家族と過ごすのはあくまでサービスだ、なんて価値観を押し付けられたりする。家族サービスなんて言葉が世間的に受け入れられてきたというのも、呆れるような話だ。こんな話を聞くたび、なぜ普通の人がこうした厳しさを負わなければならないのか、ほとほと疑問に思わされる。

 

 結論として思うのは、普通の人へは仕事の厳しさを負わせるようなことがないように、上司や経営者が制度設計できないのだろうか、ということである。おかしな価値観で無駄な残業を強いたり、通常の業務時間中でも無駄な業務、意義の薄い業務を命じたりしていないか、様々な洗い出しを行ってほしいと思う。一般的な真理として普通の人が厳しさを負う必要はないはずなのだから、そうした洗い出しができないはずはないのだ。切にそう思う。

 

部下を定時に帰す仕事術 ~「最短距離」で「成果」を出すリーダーの知恵~

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終業時間の直前に仕事を振る人は、残業を軽く考えすぎだろう

 以前に、昼休みには業務を行わないようにお互いで意識し合うべき、ということを書いた。このつながりで、終業時間の前に仕事を入れ込まないでもらいたい、という心理についても述べようと思う。

 

 職場で人から仕事を振られる際、なんとなくの気持ちで振られることはある。なんとなくで仕事を振られると一貫性がなかったりしてイラッとするものだが、特に、その仕事を振る時間帯というのも問題になる。

 というのも、なんとなくで仕事が振られる中では、終業時間の直前に仕事が振られることもたびたび生じるのである。これには特にイラッとさせられる人も多いだろう。自分もその一人だ。

 

 終業時間の直前に仕事を振られると、明日でも構わないよという意図がもしあったとしても、どうしても「残業してこなして」というメッセージが込められているように感じてしまう。さらには、終業時間の直前に電話をかけられるとなると、明日にしてとは全く言いにくいものであるため、ほぼ強制的に定時から足が出ることになる。

 相手が確実に残業しているとわかっていれば構わないかもしれないが、明らかにそんな了承もなくそのような電話をされると、辟易とさせられる。また、およそそんな電話の内容は、「このタイミングでその電話がいる?明日でもよくない?」と思ってしまうものだったりもする。(もちろん緊急性が認められるものもあるが。)

 

 やはり仕事の振り方として、終業時間の直前に振るのは避けるようにすべきだ。上で述べたとおり、相手が確実に残業するとわかっている場合は、そのように仕事を振っても問題はないかもしれない。しかし、相手が明らかに残業をする意思を示しているというのはまれだろう。

 残業する意思を示しているわけではない相手へ、終業時間の直前に仕事を振るのは、やはり残業をするように圧力をかけているかのように捉えられるのだ。そうした相手に対しては、原則として定時ですんなり仕事を終えられるような配慮が必要だろう。終了時間の直前に仕事を振ることはせず、仕事を振るのは少なくとも終業の30分くらい前までに止めておく、これが筋なのだと思う。

  

「できる上司」と「ダメ上司」の習慣 (アスカビジネス)

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安易な残業の多い現代にこそ、パーキンソンの法則が身に染みる

 この法則を聞いたことがあるだろうか。脱社畜ブログでも取り上げられていた話であり、自分も公務員心理の内容で取り上げたことがある。簡潔に言うと、「仕事の量はその完成のために与えられた時間を満たすように膨張する」ということだ。半世紀以上昔に提唱されたものなのだが、現代においてこそ身に染みる思いがする。

 

 自分がこの法則を取り上げたのは、行政組織に関する話である。行政組織では仕事の量が減ったときでも、人を減らすことはなく、つまらない仕事を作り出して埋め合わせるというものだ。またパーキンソン博士が主張したのは、行政組織では仕事の量が変わっていないのに人が増えることがあった、というものであり、そのエッセンスは同じものだと思う。

 

 そして現代の労働観により合致すると思うのが、脱社畜ブログで取り上げられていた話である。心が残業を許容した時点で、意義の薄い仕事、余計な仕事を入れ込んでしまうというものだ。残業を許容すれば仕事の可処分時間が増えるため、余計な仕事にも手を出そうとする意識が芽生えるわけである。

 

 いずれの内容も、余力ができればつまらない仕事に手を出すということを共通して指摘したものとなる。

 ただ行政組織の内容は、人を増やしたり減らしたりということでの余力の増減に言及したものであるため、雇用の流動化などの難しさを考えると、「そういうことはやめよう」と一般論にすることは難しいかもしれない。

 

 一般的な提言として上げられるのは、やはり脱社畜ブログの内容だろう。心が残業を許容した時点で余計な仕事を入れ込んでしまう、というものは、働く社会人全ての個々の問題となる。個人レベルでこのような戒めを持つことで、安易に残業を選択するということはいかに弊害があるか、理解が進んでいってほしいと思っている。

 安易に残業を選択する意識は持たないようにして、まず残業を前提にしないような意識を保つことで、余計な仕事を削り落とせるように努めることが重要なのだ。

 

パーキンソンの法則 (至誠堂選書)

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ぐだぐだな会議とおさらばするために必要なこと

 日本の組織での会議は、とにかく効率が悪いと言われる。はっきり言うと、ぐだぐだになりやすいのだ。また、若手などが会議に念のためで呼ばれることも多く、その割にほとんど発言の場を与えられないために、無駄な時間を過ごすということもよくあるだろう。これらのことについて、なんとなくであるが個人的に考えている理想論を述べたいと思う。

 

 人と議論をしている中で、2つの相反する大きな立場があることに気付くというのはよくあることだ。またその2つが相反するものであるため、真っ向から議論を続けると終着点が見えなくなる。こうした状況において明快な解決に向かわせる心構えとなるのが、厳密な解決案を探そうとするのではなく、組織の意思に委ねるということだろう。すなわちそれは、トップが決断する、多数決で決める、といったものになる。

 

 しかし会議においては、似たような役職、立場の人間が集まっていることも多く、決断を下せる人間がいなかったりする。その場合は2つの立場をめぐって、延々と議論が続けられてしまうことになり、会議の参加者はうんざりすることも多いだろう。

 もはや議論の内容よりも、相手をいかに打ち負かすかといった感情論に頭が向いているんじゃないかと、呆れさせられることもある。

 

 また、日本の組織においては年功序列、属人思考の意識が強いため、若手が意見を言おうにもまともに聞いてもらえないことが多い。そうなると若手としては上司達がぐだぐだな議論を続けるのを眺めているしかなく、こんな無駄な時間がなければ他の仕事ができたのに…と嘆くこともしばしばだろう。

 

 以上の決断ができない事態、若手が発言できない事態を解決するには、やはり多数決で決めることを意識するのが望ましいのではないだろうか。また多数決を取るにあたっては、議論におけるリーダーを明確に指定して、論点が2つ程度に絞られたのちに、リーダーが1人1人から意見を徴する時間を明確に設ける、これが有効なのではないかと思っている。

 1人1人から意見を徴すれば若手が発言できる機会を得られるし、それにより多数決への決断にもつながるようにも考えられるのだが、いかがだろうか。ぐだぐだな会議が蔓延しているような現状を鑑みるに、このようなシンプルな案で全てが解決するとは思えないが、効率を改善することはできるものだと思っている。

 

そうか! 「会議」はこうすればよかったんだ (マイナビ新書)
 

 

「できる人」認定を受けた人って多すぎやしないか

 前回は、「できる人」の要件について個人的に考えたものを述べてみた。そして、その要件は難易度の高いものになりそうであることを提起させて頂いた。

 ただ、身の回りで話を聞く限りでは、できる人というのがやたら安易に作り出されているような気がするものだ。感覚としては、前回に述べた3つの要件であれば、うち2つを満たしていればもうそれでできる人認定を受ける、といった具合だろうか。

 以下、できる人の要件は前回述べた内容を前提とする旨で了承頂きたい。

 

 「できる人」認定を受けた人へのほめそやし方には、もはや狂気さえ感じる。とにかく神格化したように語られるのだ。そんなに神様が多くいるのなら世の中苦労しないだろう、とでも思ってしまうくらいに。しかし、できる人の要件は3つであって、2つでは満たすことができていないのだ。ここを神格化して語ってしまうと、要件を3つ揃えた人が誰なのかがわからなくなってしまう。

 

 さらには、要件を3つ揃えていても、組織のトップを目指すならばそれだけでは足りない。前回、ある程度出世をしてからは組織への批判を込めていくことが重要だと述べたが、この批判の込め方も、個人の腕が問われることになる。いかに周りを刺激せずにうまく納得させて、同意を引き込みながら進めていくか。ここはもはや方法論で語れるところではない。「運」すらも絡んでくるところだろう。

 

 できる人をほめそやして神格化までするのであれば、このような組織のトップ及びその周辺にまで登り詰められるであろう人へ、その対象を限定すべきだろう。少なくとも、できる人の要件を3つ揃えた人に限定すべきだ。要件が2つあるぐらいの人を簡単にほめそやして神格化していると、聞いている方としては嘘くさいものにしか感じられなくなる。

 

 ちょっと行きすぎかもしれないが、日本人論にも絡めてみたいと思う。おそらく日本人は、子供に対して伝えるような話を、大人になってもまだ言っていることが多いのだろう。できる人認定や、以前に述べた仕事のやりがい論もそうだ。子供に対しては将来の可能性の広さを考慮して、長所を景気よく褒めるのは自然な話と言えるものだが(それでも嘘くさいのはダメ)、しかし大人になっていけば、現実的な視野でものを語らなければいけない。組織のトップに立てて神格化に値するような「できる人」はそういないし、「やりがい」のある仕事も世の中にはそれほどあるわけではない。大人同士の会話ではそうした割り切りが必要であるのに、まだそうした幻想を持ち出すことが多いように思われるのだ。

 

 そうした幻想を安易に持ち出すことは、現実を見誤らせることにしかならないのだと、今回のまとめとして強調しておきたいと思う。