社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

会社での「普通の人」にまで仕事の厳しさを背負わせる必要があるのか

 このタイトルも、そのとおりの内容としてご理解頂けると思う。会社における普通の人については、何も仕事の厳しさを背負うことはないんじゃないかと普段から考えているのだが、この話について述べたいと思う。

 

 やりがい論の話で書いたが、欧米では出世を望んで残業を厭わず働く人と、普通に働いて家族の時間を大切にする人で二分されるというのはよく聞く話である。しかし日本における同様の構図を考えてみると、出世を望む人だけでなく、さほど出世を望まない普通の人までも、残業を強いられたり仕事の厳しさを負わされたりしている…というやるせない状況が思い浮かぶ。

 おそらくこの日本の状況のほうが誤っており、欧米の構図が社会の大前提としても成り立つものだと思う。日本はあえて逆行するようなことをしているのだろう。

 

 ここはやや観念的な話になるが、出世を望んで社会をけん引する人と、出世を望まず家族の時間を大切にする人では、備えている役割に絶対的な差があるだろう。役割に差があるのだから、当然仕事量にも差があるはずなのだ。これは本質的なもので、一般的な真理としても語れるものだと思う。だからこそ、日本において出世を望まない普通の人までも残業を強いられたり厳しさを負わされるのは、本質的に誤ったことなのではないだろうか。

 

 残業を強いられるのも、長時間の残業を厭わずこなすべきという価値観を押し付けられてのことであり、ひどければ残業時間の長さで人事的な評価を決められたりもする。しかし、普通の人は備えている役割が相対的に少ないのだから、無理に残業をしようとしても意味のないものになってしまう。だらだら残業、付き合い残業、ぐだぐだな会議に巻き込まれての残業…全て意味のないものだ。

 併せて、普通の人が多量の業務量を押し付けられているという事態があったとすれば、それはブラック企業、やりがい搾取といった話につながるわけで、これはこれで間違った話であることが言える。

 

 普通の人が休日に関して干渉されたりもする。休日を本当に休日として使うな、休日は自己研鑚の時間に使えなどと言われたり、(過去記事。)休日に家族と過ごすのはあくまでサービスだ、なんて価値観を押し付けられたりする。家族サービスなんて言葉が世間的に受け入れられてきたというのも、呆れるような話だ。こんな話を聞くたび、なぜ普通の人がこうした厳しさを負わなければならないのか、ほとほと疑問に思わされる。

 

 結論として思うのは、普通の人へは仕事の厳しさを負わせるようなことがないように、上司や経営者が制度設計できないのだろうか、ということである。おかしな価値観で無駄な残業を強いたり、通常の業務時間中でも無駄な業務、意義の薄い業務を命じたりしていないか、様々な洗い出しを行ってほしいと思う。一般的な真理として普通の人が厳しさを負う必要はないはずなのだから、そうした洗い出しができないはずはないのだ。切にそう思う。

 

部下を定時に帰す仕事術 ~「最短距離」で「成果」を出すリーダーの知恵~

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