社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

自己研鑚の時間がなんで労働時間から外されるのか、全く理解できない

 日本の会社においては、一定の行動について、何かにつけて労働時間から除外して給与や残業代を支払わない、という流れを作りたがる。これは異論の余地がないところだろう。

 この一定の行動というのが、挙げていけばおそらくキリがない。今回はその中でわかりやすいものとして、「自己研鑚」の時間を取り上げたいと思う。

 

 仕事のための勉強など、自己研鑚の時間は労働時間でないという理屈は、とにかくよく聞かれる話だ。仕事のための勉強で残業していても残業代は支払わないし、土日の休暇の時間で勉強をするべきだ、こうした理屈が平然と用いられる。

 特に新卒、新人で働き始めた人は、こうした理屈を痛いほど聞かされることだろう。新人の勉強の時間に給与なんて払えるか、などと言われんばかりである。

 

 まず、新人であるからといってその労働を軽く見るのは、根本的に誤っている。これは搾取のための理屈でしかない。新人であっても社会人である以上は、労働の対価は公平に支払われなければならない。この一言に尽きる。

 

 そして、新人に限らず勉強の時間を労働時間として認めようとしないのも、これも搾取のための理屈である。

 勉強の時間は目先の生産性がないように見えるのだろうが、将来の生産性につながることは確かなのだから、これを軽く見るのも根本的に誤っている。

 もちろん、仕事の内容にあまり関連のない勉強であれば、それは家でしなさい、ということにはなる。しかし裏を返せば、仕事の内容にある程度関連のある勉強であれば、それは労働時間として認められるべきなのである。

 

 自著において、働いている時間は「社会の時間」、家に帰ってからの時間、休日の時間は「個人の時間」、というシンプルな定義を行っているのだが、この定義を用いて搾取について述べてみたい。

 学生であればこの定義に沿う時間が学校の時間、学校以外の時間となる。いずれの時間でも同じ友達と顔を突き合わせることも多く、両者の境界線はあいまいなものだったりする。しかし社会人であれば、両者の境界線は明確になる。

 なぜそう言えるのか適当な理屈は見出せないが、おそらくは学生と違って給与を得るための時間というのが安定的にあるため、それが尺度になるのだと思う。給与を得るための時間を過ごす同僚と、個人の時間で過ごす家族友達の間には、かなり明確な差がある。

 

 つまるところ、社会人には「社会の時間」と「個人の時間」、どちらかの時間しかないのである。そして、勉強をする時間が社会の時間として認められないのなら、自動的に個人の時間が侵されることになってしまうのだ。おそらく、自己研鑚などの時間を安易に労働時間から除外しようと考える人は、そのことがわかっていない。

 

 この二極の考え方で捉えると、仕事にある程度関連のある勉強をしているのに、それを労働時間として認めないことの間違いがよくわかると思うのだが、いかがだろうか。

 仕事に深く関連する勉強や目先の生産性のある勉強しか認めない、というのは極めて狭量な考え方であり、個人の時間を侵して搾取するためのものでしかないのだと思う。

 

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