読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

業務の閑散に応じ労働基準法を取り払うと、残業代ゼロ法案が登場する

 前回は、業務の繁忙、閑散について、繁忙期に易々と人を増やすことが非正規雇用増加の一因になることを述べた。今回は、業務の繁忙、閑散に対して、労働基準法で週5日、毎日8時間の労働が規定されていることの問題を述べたいと思う。

 

 週5日、毎日8時間という枠ありきになっているため、繁忙期は時間外労働も検討するほど業務量があったりするが、閑散期はこの枠を満たせるほどの業務量がなかったりする。なので閑散期は、仕事が少なくあまりすることのない状況に甘んじる、ということがあったりもする。

 しかし日本人は仕事を美徳と捉えるため、仕事が少ないという状況を受け入れようとしない節があり、このことに抵抗感を覚えることは多いだろう。閑散期には普段やらない雑務にいそしんだり、雑談をしたりする、素直にそれを認めたらいいんじゃないかなあと思うのだが。(露骨に遊ぶのはだめですよ。)

 

 そして、こうした状況を改善するため、閑散期は早く帰らせてくれてもいいんじゃないか、という感覚に囚われたりもする。

 しかし閑散期に応じるため労働基準法の枠を取り払うとなると、労働時間が短くなることが明白にさらされるため、給与を削減される機運が生まれてしまうだろう。労働時間が明らかに短くなるのに給与は据え置きでお願いします、とは厚かましくて言えない。そうして給与が削減されると、これはこれで労働者としては困る。

 なので、給与水準を保つため週5日、毎日8時間の枠を維持するか、業務の閑散に応じた働き方を求めて、給与には譲歩して時間に囚われず自由に働くか、という壮大な二択に直面するわけである。

 

 そして後者の選択肢は、現在進行中のホワイトカラーエグゼプションの制度へ密につながる話である。この制度については、電子書籍自著で簡潔に所感をまとめている。やっかいなのが、日本においてはブラック企業がはびこるように、使用者が労働者へ過重な労働を課すことがあるという性質が存在することである。以前にやりがい搾取の話で述べたとおりだ。

 

 こうなると、「時間に囚われず働く」という概念が悪用される。本来は「時間に囚われない=閑散期に応じて早めに仕事を終えたい」という意図であるはずが、「時間に囚われない=遅くまで働かせてよい」という歪んだ解釈がなされてしまうのだ。それでいて1日8時間労働でそれ以上は時間外労働、という枠組がなくなるため、残業代も支払われなくなる。これが「残業代ゼロ法案」と言われるゆえんである。

 

 日本においては、そうした悪用が行われる恐れがあるという事実は重くのしかかる。なので個人的には、週5日、毎日8時間の枠を残し続けることを支持したい。閑散期には仕事が少ない状況に甘んじるということに対しても、雑務をしたり雑談をしたりすることを素直に受け入れたらいいんではないかと。

 まだ日本においては、時間に囚われず働くという概念を導入するには早いのだろう。幸いにして、近年はブラック的なものを叩く風潮が生まれてきているので、時間に囚われずに働くというのは、こうした意識が十分に浸透してからでも遅くないと思う。

 

 ホワイトカラーエグゼンプションの大きなメリットとして、だらだら残業を抑止できる点も確かに挙げられる。しかしそうしたメリットがあったとしても、現状の日本においては週5日、毎日8時間の枠を維持するほうが望ましいと個人的には考えている。やはり、使用者により過重な労働が課される恐れがあるというデメリットは、とてつもなく重い。

 

いのちが危ない残業代ゼロ制度 (岩波ブックレット)

いのちが危ない残業代ゼロ制度 (岩波ブックレット)