社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

日本的労働におけるバカンスへの渇望

 日本の労働者は、まず欧米のバカンスのような長期休暇を満喫することはない。そしてそれが社会常識のようなものになっていると思われるのだが、それは本当に常識として受け止めるべきものなのだろうか。

 

 日本では、様々な時間を満喫できるのは学生までだぞ、ということがよく強迫的に語られる。確かに自分も、大学4年生の終わりには、もう学生のようには楽しめないなと寂寥感を覚えた瞬間がある。そして社会人になってからはそのとおりに、旅行は頑張っても1週間行ければいい、という状況に置かれている。しかもGW、年末年始などの連休期間の混雑をぬって。

 学生のように、夏休みや春休みで混雑していない期間で2,3週間の旅に出るということは「無理」なのだと、深層心理のレベルで刷り込まれている。次に2,3週間などの長期休暇を取れるのは、もはや仕事をリタイアした60歳頃の話なのだと。(60歳台では体力がもたないというオチまでついて。)

 旅行を十分に満喫できるのは学生の期間に限られるなんて、これは誠に残念な話だと思う。

 

 しかし欧米諸国では、一般的な労働者も2,3週間のバカンスを取ることも多いと言われる。年に1度、2,3週間の休みが取れることは何と素晴らしいことかと思う。日本人としては想像しただけで胸が躍る気持ちになる。

 年に1度も長期休暇を取れるのであれば、会社の中で閉鎖的な価値観に縛られるということも、なかなかに軽減できるんじゃないだろうか。日本の組織においても、ゆくゆくは絶対に真似すべきものだと思う。

 

 しかしここまでは、未婚の若者や子供に手がかからなくなった中高年の人を前提に話をしてきた感がある。子供のいる既婚者については、バカンスへ行っている間子供はどうするの、と言われれば耳が痛い。

 ただシンプルに考えて、バカンスへ子供も連れていけばいいわけである。子供の都合に合わせる必要があるとしても、夏休みといった長期間の休みもあるのだから、そこに合わせてバカンスを取ればいいと思う。(夏休み期間全体がバカンスで混雑するということにはなるが。)

 

 さらに、仕事の都合でそれができないという親についても、学校側の配慮で子供の長期休暇を認めてあげてもいいんじゃないかと思うところだ。

 横並びが大好きで同調圧力が半端ないという日本人の性質上、子供が所定の休み以外で長期休暇を取ろうものなら、たちまち学校では村八分の扱いを受けることが明白という問題はある。

 しかしこの考えも、子供とはいえ狭量なものであるわけで、どんな親にもバカンスを取得させることを社会的な命題としていれば、子供の都合もそこへ合わせることが社会的に認められないものだろうか。学校側としても、子供が病気怪我などで学校に来れない場合にはその期間のフォローをするわけで、親の都合に合わせて長期休暇に出ている子のフォローだってできないものだろうか。

 

 子どもの長期休暇取得も含めて、日本においては現状からほど遠いように感じられる話であるが、バカンス制度というのはぜひとも実現してほしいものだ。

  

観光大国フランス ―ゆとりとバカンスの仕組み―

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「お客様は神様です」は全くもって誤った使い方がされている

 日本では、「お客様は神様です」という言葉がよく使われる。商売をする者にとって、お金を払ってくれる客は神様のようなものという意味合いであるとして、一般的な理解が定着しているだろう。しかしこの使い方、日野瑛太郎氏の書籍で取り上げられていたが、全く誤ったものなのだ。

 

 この言葉は、お客様は神様だから店側は何でも言うことを聞け、と客側が横暴を振りかざすことにつながりやすいものだが、これが決定的に誤っているのである。

 どうやら、舞台で演じる者はお客さんが神様だと思って真摯に演じよ、というものであるらしく、一般の店においてまで客が神様になるなんてことを全く想定していないのだ。あくまで「舞台で演じる者」に限った話なのである。一般の店で働く人に対してまでこの理屈を用いるのは、ただの濫用でしかないのだ。

 

 確かに、一芸を披露してそこで客側からお金を払ってもらうという立場であれば、それは客を神様と思うくらいの真摯さが求められるだろう。しかし一般の店は、商品やサービスを提供すれば、お金を払ってもらう客に対しての義理は尽くされているのだ。

 もちろん、最低限の義理を尽くすだけでは味気がないので、店側が自発的にそれ以上のサービスを行うということはあるだろう。しかしそれはあくまで自発的なものであって、客側が横暴にもそれを求めるということはあってはならないのだ。

 

 以前に日本人の対応圧力の強さについて書いたが、「お客様は神様です」という言葉が生まれたときに、それを対応圧力の道具としてこぞって利用しようとしたわけで、そんな日本人の心理がただ残念なものに映る。

 

「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)

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有給休暇の買い取り制度には危険がつきまとう

 この話は、日本において有給休暇の取得率が低い現状において、しばしば提案されている。有給休暇に係るアンケートが実施される段においては、対策案において上位にランクインされていることも多い考え方だ。しかし、脱社畜ブログでも取り上げられていたが、個人的にはこの制度は危険であるように思う。

 というのも、有給休暇を買い取ってもらうことで基準以上の給与を得られるならば、労働者はそれを基準に考えてしまうことが考えられるのだ。やはり、最大で得られる給与というものがあるならば、それを基準にしたくなるというのが人間心理だろう。

 

 基準以上に得られる給与と言えば、現状でも残業代がこれに該当する。自分の周りでも、自身の給与について残業代を前提にした額を話にする人は多い。本当に基本給から高給取りなのかもしれないが、およそ給与自慢をしてくる人は、残業代を込みにした額を言っていることが多い。

 自分としては、残業代はイレギュラーなものであって、これを前提にするのは適切なものでないと思っている。だいたい、残業代はワークシェアリングの概念に反していて、1人が基本給と残業代をせしめるのではなく、もう1人雇用を増やして2人で分け合うのが適切だというのはよく言われる話だ。

 

 少し話が逸れたが、残業代ですらそれを前提にした給与の計算がなされやすいのだから、有給休暇の買い取り制度があれば、なおのことそれを前提に給与の計算がなされることが見込まれるのだ。給与自慢をする日には必須のものとなる。

 そう考えると、有給休暇の買い取りの制度があるというのは、有給休暇の取得率を絶望的に押し下げる結果になるだろうという想像がつく。有給休暇は取れないものと諦めた上での制度設計なのだから、それは根本が誤っているのだ。

 

 さらには、より悲惨な事態も想定される。有給休暇の買い取りで現在の水準より高い給与を得られればいいのだが、その状況はいつまでも続くとは思えないのである。これも脱社畜ブログで述べられているのだが、いつかは使用者側が労働者の賃金を、有給休暇の買い取りコストも含めて設定しようとすることが想像されるのだ。単純に給与が圧縮されるわけで、有給休暇を全て買い取ってもらって始めて、以前の水準の給与が得られるということにもなる。なんともおぞましい話だ。

 

 有給休暇の買い取りにはこのような、労働基準法の概念を覆しかねない危険が秘められているわけで、その認識が広まっていってほしいと思う。アンケートでこの制度への要望が上位に来るということは、ゆゆしき事態なのだ。

 

遠慮せずに休んじゃいけないの?: 年次有給休暇 休みづらい問題 (労働時間・休憩・休日ターンアウトマガジン新書)

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「給与を削減するといい人材が集まらなくなる」って乱暴な話じゃないか

 大ざっぱではあるが、タイトルの件について雑感を述べてみたい。

 

 様々な組織において、経営者が従業員の給与を削減するという流れが生まれることはあると思う。特に行政組織に対しては、民間水準に比べて給与が高い、削減せよ、ということがよく言われる。そしてその反論として、「給与を削減するといい人材が集まらなくなりますよ」という理屈が用いられる。

 …正直、身も蓋もない理屈だとは思う。が、ここへさらなる反論をするのは難しいようにも感じる。たしかに給料を減らされたら、その仕事に就く人が減ってしまうよね…とすんなり納得してしまう。

 ただこの理屈には、1円たりとも給与を下げさせないという乱暴な感情が込められている感があるのは確かだ。なので、あくまで身も蓋もないように感じる、その感覚へ主眼を置いて考えてみたい。

 

 やはり、給与を削減すると一口に言っても、本当に人材が集まらなくなったり人材が逃げてしまうような水準と、それくらいでは人材が減ったり逃げたりはしない水準という、2つの水準があるのだと思う。そこで2つの水準を区別せずに、少しでも給与を削減すると前者の事態に陥りますよ、と一律に語ることには、脅しをかけるような意図があるのだろう。その部分で身も蓋もないように感じられるのだと。

 となると、給与の削減でいい人材が集まらなくなる、この理屈は必ずしも正しいものではない。ある程度の給与の削減では人材が減ったり逃げたりすることはないわけで、その削減幅までは給与を減らすことはできるはずだと、そうした反論をすることができる。

 

 ただ難しいのが、「ある程度の」給与の削減という、その一線がどこにあるのかがわからないことだ。これを明らかにするには、壮大な社会実験が必要になるだろう。

 ここまで給与を下げても人材が減ったり逃げられたりはしない、これ以上給与を下げると人材が集まらなくなったり逃げられたりする、社会実験が実現すればその一線の目安をつけることができる。しかし現状ではそのような社会実験は見当たらないため、そこに根拠を求めて冒頭の理屈へ反論するのは難しそうだ。

 

 しかし少なくとも、給与の削減でいい人材が集まらなくなるという理屈は、先に述べた「一線」を考慮していない乱暴なものであることは明らかであって、そのことを指摘すればよいのかと思う。

 

給与削減・退職金削減に備えた公務員のためのお金の貯め方・守り方

給与削減・退職金削減に備えた公務員のためのお金の貯め方・守り方

 

 

理想を追求しすぎるから、逆に日本人は英語ができなくなる?

 前回述べた、「理想を追求して目先の堅実さを失う」という心理は、日本人の英語に対する姿勢で如実に現れているなあということも常々思う。

 日本人は英語の文法などにこだわって実践的なスピーキング、ヒアリングができない、ということはよく言われる。これは、そのまま冒頭の心理に当てはまるんじゃないだろうか。文法まで正確に捉えた英語を話そうとして、それが容易なものではないために諦めてしまい、逆に簡単な会話からも逃げてしまう、そういうことなんじゃないだろうか。

 

 外国の方は、少しでも洗練された場にいる人であれば、まずもって英語が話せる。 こちらとしても、英語がわかる前提でもって会話を始めようとする。

 しかし一方の日本人はどうだろうか。社会において一流の地位にある人ならばおよそ英語は話せるだろうが、多少洗練された場にいる程度の人は、およそ英語が話せないと言っていいだろう。

 

 しかし、英語圏の出身でない方の英語を聞いていると、文法を無視しているということはないが、本当に簡単でわかりやすい単語を主に使っている。そうした方からのメールの文章などを読もうものなら、本当に中学生の教科書のレベルと言ってもいいくらいだろう。

 

 だから、日本人の英語ができないというのは、ただ単純に意識の問題なのだと思う。正確な英会話をするという理想を追求して、それができないから、簡単な英会話をするという目先の堅実さからも逃げてしまうんだと思う。

 とにかく、深く考えずに簡単な英会話から始めればいいのだ。その意識が幼少期教育から育まれていくことを切に望む。

 

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

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理想を追求しすぎて、目先の堅実さが失われるというジレンマ

 この話も、以前に一度書いたことがある。阪神大震災の復旧で、一部の復興を手助けすれば全体にとって不公平になる、という驚くべき理屈が取られたという話に基づいている。理想を追求して目先の堅実さを失うということなのだが、このような大きな話においてだけでなく、日常の場面でもこうした心理はしばしば見受けられるように感じられる。

 学生あたりならばよくあることだと思うが、自分の理想が固まるまでは何も動き出さない、という心情があったりするだろう。そして、何も動かなかったことは間違いで、できることはやっておけばよかったと後悔したりもする。目先の堅実さを失ったということで、これがこの心理にあてはまる。

 

 ただ、成長途中の学生であればいいのだが、会社の人間であったりそういう大人がまだこんな話をすることが多いように思われるのだ。

 わかりやすい話は、仕事相手に何かを伝える際に、10のうち10すべてを伝えようとすることだ。もちろん伝えられる側としては、一度に10を伝えられても煩わしく思ってしまって処理しきれずに、結局2や3しかやってもらえないということがあったりする。こうした話は実に残念だ。

 最初に伝える量は6や7に抑えることで、5あたりを確実にやってもらえばよかったのだ。細かい部分までは最初から伝えず、要点を絞ってわかりやすくするということでもある。細かい部分は後から追加して対応してもらえばいいのだ。(もちろん、それができないときは除くとして。)

 

 構成員がこうした心理にこだわってきた結末として、細かいことにはうるさいが重要なことが抜け落ちている、そんな矛盾を抱えた組織というのもあったりはしないだろうか。もはや、細かいことにうるさい組織というのは、およそ組織として重要な部分を見落としている、それが一般的な真理として語れるんじゃないかと思う。

 

 また、再び行政組織の話をしたい。行政組織でこの心理が現れるところで特に弊害が大きいと思うのは、予算の査定と評価である。予算の査定にしろ評価にしろ、とにかく細かい部分まで含めて臨もうとするのだ。もちろん理想としては、国民の税金に係る部分だから1円単位でチェックを入れたいと思うのだろう。しかし人間の能力を考えれば、そんなことは全く現実的でない。

 むしろそうした細かい姿勢で臨むことで、予算の割と高額な部分で手落ちがあったとしても、それを見落とすということが想定されるのだ。特別会計や補正予算といったものがザル気味に語られたりするのも、そうした見落としが積もり積もってのことなのだと思う。

 対照的に一般会計は1円単位でのチェックが行われているわけで、これは本末転倒以外の何者でもないだろう。

 

 これもまた「やりがい論」「できる人論」と同様なのだが、理想を追求して目先の堅実さを失う、こんな子供じみた心理を大人が持っていてはいけないのだ。目先の堅実さを優先するべきであって、そうすることで大きな手落ちが生じることを確実に防止する、それがしかるべき振る舞いというものだろう。

 

危機の二十年――理想と現実 (岩波文庫)

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日本の男性には、妻を使用人とみなすかのような心理が存在してないか

 タイトルだけで、およそのことは把握頂けるかもしれない。日本人男性によく見られる、まるで妻を家庭の使用人としてみなしていると疑われるような心理のことである。

 

 結婚するまでずっと実家暮らしで全く家事をしたことがなくて、結婚してからも妻に任せきりの旦那、というのはよくある話だ。こうした旦那は、家事への適性が全くないという可能性もあって、諦めの気持ちが芽生えたりもする。

 ただやっかいなのが、学生のときは一人暮らしをしていたはずなのに、結婚すると全く家事をしてくれないという旦那である。一人暮らしの経験があれば、洗濯掃除、炊事の一部くらいは身につけているはずなのにである。自分もそれなりにはできるはずなのに、妻がいるならそれを任せきりにするというのは、明らかに妻を使用人とみなしているかのようだ。

 

 そしてこんな構図は、一般社会においてもうかがえる。使用者と従業員における関係だ。使用者は、その組織で行う業務において人を使うのだから、自分もその業務を行った経験はあるはずなのだ。経験があって一通りの内容を把握していないと、まともな指示を出すことはできないわけである。

 その中から一部の人は、そうした現場の経験を早々に切り上げて、今度は人を使う側に回ろうとする。組織の制度により、幹部候補が一時だけ現場の経験をしに来ただけ、ということもあるだろう。その後は自分は指示を出す側に回り、実際の作業、現場での作業は他の人にやらせる、ということになる。

 

 このように人を使う側に立つというのは、確かに一般社会においては目指したいと思われるものだろう。しかしこんな感覚が、一般社会のみにとどまらず、家庭内にまで持ち込まれているように感じられるのだ。その結果として、旦那が妻を使用人のようにみなす姿勢が成り立っているように思える。そのような旦那は、その気になれば自分も家事はできる、けどつまらない作業だから妻を使ってやらせてしまえ、なんてことを思っているのではないだろうか。

 

 人を使う使われる、利用する者される者、なんて関係は冷たいもので、一般社会の中だけにとどめておくべきものだろう。家庭内にまでこんな関係を持ち込む考え方には、やはり卑しさを感じずにはいられない。