育児で親の協力を頼むのは意外に簡単じゃない、だから旦那が頑張ろう
女性が社会進出するとなると、その分家事育児を行う時間が狭まることになる。女性だけで仕事をしながら家事育児をこなすことも無理ではないのだろうが、旦那が協力せずに妻に押し付けてばかりだと、後々まで深い恨みが残りそうな気がする。そんな旦那とは子供が独立したらもう一緒に居たくない、ということでの熟年離婚があるのも頷ける。
なので、そういうことは考えないとすると、やはり誰かが家事育児の埋め合わせをしなければならなくなる。
今回の内容でも、前回に引き続き「家事」を「育児」に含めて述べることとしたい。
前回は男性の育児参加について述べたが、自分は女性の社会進出に伴う育児の埋め合わせは、基本的に旦那が行うものだと思っている。実際にそれを実践もしている。
しかし周りで話を聞く限りでは、妻か旦那の親に手伝ってもらえばいいじゃないか、という話が簡単に出てくる。これってどうなのだろうか。
もちろん、祖父母が近所に住んでいて、子供や孫のことなら自分の時間を進んで捧げるというような人であれば、協力を仰いだらいいのだろう。
しかし、祖父母がすぐ近所に住んでいるなら進んで孫の面倒を見てくれたりするだろうが、祖父母がすぐ近所に住むというのも最近はめっきり減った話ではないだろうか。まあ、ある程度の近所、30分から1時間で行ける距離に祖父母が住んでいるのはよくあるだろう。しかし、孫の世話に自分の時間を進んで捧げる人でなければ、頻繁に労力をかけるには苦しい距離となる。
あるいは、祖父母というとリタイアして老後暮らしをしているイメージがあるものだが、まだ50代などであって普通に仕事をしていることもある。近所に住んでいるかどうかに関わらず、仕事をしているなら空いている日しか孫の世話は頼めない。
近所に住んでいない、近所に住んでいてもまだ仕事をしている、近所に住んでいて仕事もしていないが、すぐ近所でもないので頻繁には頼めない。祖父母に孫の世話を頼むと一口に言っても、これだけの障壁があるのだ。やはり本質的に、育児は親に手伝ってもらえばよいと簡単に考えるものではないのだろう。
また、女性が平社員であれば親の協力なしでやっていけたとしても、女性が少しでも出世して役職がつくのなら、育児の理由で休むわけにはいかなくなるのだ、親の協力が必須なのだ、と捉える考え方もある。
しかし、少しくらい出世したところで、育児によって残業ができなかったり休暇が多少多くなったりして、それほど問題はあるのだろうか。少しの出世で急に責任重大な立場に置かれる、ということは一般的にはないだろうし、残業ができないこと、多少の休暇の多さがあることが問題だとは思えない。旦那の協力を得られるのならその程度を軽減することもできるし、なおさら問題はなくなるはずだ。ここでも親の協力を強迫的に持ち出す必要性はないだろう。
女性が要職にまで出世する、ということであれば親の協力を得ることも考えるところだが、女性が要職に就ける資質があるなら、もはや旦那が専業主夫をすればよいという選択肢も現れる。旦那に要職へ就く資質がないのなら、それでもいいんじゃないかと思う。やはり、親の協力を必ずしも得ないといけないというわけではない。
女性のある程度の出世までは育児との両立に職場が寛容になる、旦那も協力してそれを補う、女性が要職にまで出世できる場合は専業主夫の選択肢を考慮する、その二本立てで考えればよいのだ。前者は職場と旦那、後者は旦那の理解を推進することが求められる。
前回の話と合わせて、結論を述べたい。女性の社会進出による育児の埋め合わせで、親の協力は安易に求められるものではない、だから育児の埋め合わせは基本的に旦那が行うべき。職場としても、育児をする女性のある程度の出世へ寛容になること、またその埋め合わせで育児参加する男性へ不利益を与えないこと、以上の意識を持つようにすべきなのだと思う。
職場がこうした理解を示さないでいると、育児参加する男性へ不利益が及び、育児の埋め合わせができずに女性の社会進出、出世が遠のくということになる。女性の社会進出ということが旗印に掲げられようとも、それはお題目として終わってしまうのだ。
子どもたちはなぜ、9歳で成長が止まるのか―日本の「男性社会」が子供をダメにした!?
- 作者: 三沢直子
- 出版社/メーカー: 実業之日本社
- 発売日: 2004/09
- メディア: 単行本
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
育児参加する男性が人事的な不利益を被るのって、なんとかならないか
近年は、女性の社会進出、女性の登用というものが叫ばれている。女性というだけで家事育児の重荷を負わされ、社会に進出しにくくなっているというのは、生まれながらの身分制のような話なのでやはり改善すべきものだろう。
ただ、自身の経験も含めて考えるところなのだが、この話と同時には男性の家事育児参加について考えるべきではないだろうか。「イクメン」という言葉も聞くことが多くなったが、なんだか希少種を新奇な目で見ているようで、男性の家事育児参加の概念が浸透しているとは感じにくい。本来は、このような言葉が使われるまでもなく自然に受け入れられるはずのものだろう。
以下、家事については子供がいるとその負担が増大するものとして、「育児」に含めて一まとめに語りたいと思う。夫婦二人だけなら、大人なので身の回りの話で省略できる部分も多いが、子供はそうはいかないので大いに手間がかかる、という感覚に基づいている。
男性の育児参加だが、自分はこれを大いに実践している。おそらく奥さんとほぼ均等にこなせている。行政組織勤めなのはあるが、妻、旦那ともにワークライフバランスを満喫できているのではないかと思っている。しかしこの姿勢について周りの人と話が出ると、およそ驚かれる、珍しがられることのほうが多い。
世間話の範囲で驚かれたりする分なら問題はないのだが、問題となるのは、職場での評価だ。
「組織文化に応じて人事評価が決まる」というのは組織における鉄則である。革新的な職場ならそうした姿勢の人が正しく人事評価を得られるが、事なかれ主義の職場なら事を荒立てない人が人事評価を得たりする。そういうことであって、先の鉄則は後者のような状況を嘆くときに使われやすい。
そして、男性が育児参加をそれほどしないもの、というのは日本人の文化であり、これが大半の組織においても組織文化になっているだろう。すると、育児参加する男性は組織文化に反するものとして、往々にして人事評価が下げられる…ということが想定されるのだ。
自分は子供の保育園のお迎えの時間、帰ってからの育児の時間を確保するため、帰宅はほぼ全て定時である。さらに、子供が熱を出したら仕事を切り上げてお迎えに行く、子供が保育園を休んで家で看る必要があれば奥さんと均等に休暇を取る、といったことをベースに仕事をしている。周りにもその旨を明示している。
残業はほぼしない、1,2日の休みがちょくちょく生じる、という仕事の仕方なのである。そこへ、男性なら家族の時間は置いておくべきで、残業に励んだり年休もあまり取らずに頑張るものだ、という組織風土があったとしよう。すると、こんな人間は使い物にならないとして、全く人事評価を得られなくなるだろう。下手をすると、組織によっては問題職員と同様の扱いとされ、一切の昇進ができない、暗に退職を迫られるなどの不遇を受けるのかもしれない。
もちろん、家族や育児の時間を優先する姿勢を取り、それでいて幹部などの要職への道も公平に用意しろ、と求めるのはさすがに厚かましいとは思う。しかし、定時まではまっとうに仕事をしている、休暇も所定の範囲内で収めている、ということであれば、ある程度の人事評価は得られるのが筋ではないだろうか。そこへ人事評価をほとんど与えないとなると、その理由は怪しくなってくる。
所定の労働時間内、休暇日数内ではまっとうに仕事をしている人間が、人事評価を全く得られないということであれば、それは組織風土による色眼鏡がかかっているのだろう。そうしたところには日本文化の旧態依然さを感じずにはいられない。
ここまで、あくまで一般論として語ったつもりである。自分が実際に人事評価を得られていないというわけではないつもりだが、個人の主観が入り込んでいるように見えればご容赦願いたい。
こうした日本文化の旧態依然ぶりは存在するわけだが、しかし冒頭で述べたように、女性の社会進出を叫ぶのであれば、育児参加する男性への不利益が及ばないように図るという、この両者をパッケージとして考えるべきなのだろう。
もう既に長々と述べているが、女性が社会進出するならば男性の育児参加が必要になるということについては、個人的な意見を次回で述べてみたい。
「育メン」現象の社会学―育児・子育て参加への希望を叶えるために
- 作者: 石井クンツ昌子
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2013/04
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
「読まれないマニュアル」にならないために必要なこと
前回は、前任者の責任感の欠如などによって分量不足のマニュアルが作られることを書いた。ただマニュアルの問題は分量不足だけでなく、分量が多すぎるということも起こり得る。
これは責任感の欠如とは言いにくいのだが、前任者が業務で経験したことを、枝葉末節も含めてとにかく羅列して書き記すことで、分量が多すぎて要点のわかりにくいマニュアルができあがる。当然ながら、要点のわかりにくい文章ほど読む気の起きないものはない。これが、「読まれないマニュアル」の要因の1つである。
対策としては、問題点が前任者の性格にあり、業務の要点と枝葉末節との区別ができないという思考を持っているので、やはり上司などの第三者により作成内容へチェックを加えることが考えられる。
前回述べた、慣れきった感覚で簡潔すぎるマニュアルを作成してしまう話も含めて、上司によって定期的にチェックを行う体制はやはり必要なのかもしれない。もちろん、短い期間に何度もチェックを受けるのは煩わしいので、年に1,2回程度にとどめておくべきだろう。
さらに、一度マニュアルは作成されたのだが、アップデートが不足しているということも問題となる。
アップデートが不足していると、読んでいてその箇所にさしかかる時に「今はもう違うじゃないか」といちいち思ってしまい、イライラを募らせることになる。イライラが募ると、その箇所以外の問題のない部分まで読む気が失せるかもしれない。こうしたことが、「読まれないマニュアル」の要因の2つめとなる。
対策としては、やはり前任者本人が定期的に内容のアップデートへ注意を払うことが必要だ。また先に述べたように、上司によって定期的なチェックを受ける体制において、アップデートについても確認を行うのがよいのかもしれない。
前回までの内容をまとめて、結論としたい。
マニュアル作成には、まず前任者のおかしな優越意識を捨てて、後任者への配慮を行うべき。50ページほどのマニュアルは残したい。
作成にあたっては、新たな業務を覚えるたびに、カーボン紙のようにマニュアルへも転記することが重要。また、分量が多すぎたりアップデートが不足するのを防ぐため、上司によって年1,2回のチェックを受けるのが望ましい。
仕事を覚えるたび、カーボン紙のごとくマニュアルへ転記していこう
前回、業務マニュアルが軽視される心理として、前任者が後任者へおかしな優越意識を持っているのではないか、ということを述べた。
一度このブログでメモ書きを簡潔に残したことがあるが、今回はそうしたおかしな優越意識をどのように改善していくか、実践的な内容を掘り下げて述べたいと思う。
軸になる話として、まずは分量の目安について。具体的な分量の数値があれば、どれほどのマニュアルを残すことが後任者を救うことになるのか、それを把握できると思う。
結論を言うと、自分は3、4年の在籍であれば50ページ程度のマニュアルを作成してきたのだが、このくらいがちょうどよかったと思っている。後任者から文句を言われることもなく、活用できた旨謝辞の言葉を頂けたものである。(お世辞ではなかったものとして…)
労働基準法の枠内でも1日8時間、週5日働いているのだから、これくらいのページ数にはなるものだと、個人的にはそう思っているがいかがだろうか。
また異動においては、自身が前任になると同時に後任にもなるわけだが、これも自身の経験においてだが、悲しいことに後任の立場としてはまともなマニュアルをもらえた記憶がない。3,4年在籍していた前任者から、10ページ程度のマニュアルを提示されると、「あなたの仕事はそんなものだったんですか?」と呆れてしまう。
これでは、割と重要な知識までがマニュアルから抜け落ちているので、後任者のミスが誘発されるのは避けられない。そして、いい加減なマニュアルを作成した前任者は不問で、ミスをした後任者が評価を下げることに…となるのだが、あまり書くと愚痴になりそうなのでやめておく。
こうなるとおり、10,20ページ程度のマニュアルでは明らかに分量不足だろう。
次に、分量不足になる原因を考える。まずはここまで取り上げている、前任者の責任感の欠如によるものが1つである。そして、責任感の欠如と言えるかは微妙なものとして、前任者が自身の業務に慣れきった感覚でマニュアルを作成することで、簡潔すぎる内容に仕上げてしまうというものが、2つめにある。内容が簡潔だと、初見で業務を覚えていく後任者には理解が難しく、やはりミスを誘発することになる。
この対策としては、業務に慣れきった感覚でマニュアルを作成しないようにするほかはないだろう。すなわち、業務を新しく覚えた段階で、そのつどマニュアルにも記載するということである。まるで、カーボン紙で複写するような感覚でもって。ここでも、マニュアルにまで転記している時間がない、とは言ってほしくない。
もちろん、息つく暇もなく目の前の業務をこなさなければならない状況では、これは難しい。しかしその場合であっても、簡単なメモを取るようにしておきたい。業務が落ち着いた時間がやってきたときにマニュアルへ清書すればよいのである。
そして今度は、分量が多すぎるなどによって「読まれないマニュアル」となることの問題を述べたいのだが、長くなってきたので次回に分けたい。
- 作者: 日本能率協会コンサルティンク゛
- 出版社/メーカー: 日本能率協会マネジメントセンター
- 発売日: 2006/12/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 7人 クリック: 272回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
内容の薄いマニュアルを残す前任者は、後任者への配慮が欠けている
仕事をされている方は、このタイトルにどのようなことを感じるだろうか。
様々な職種において、異動、転勤というものは存在する。(以下「異動」とまとめる。)そして、この異動のたびに重要となってくるものがマニュアルである。業務の前任者と後任者で、業務内容で手順に落とし込めるものについて、その手順書を作成して共有するのである。
ただこのマニュアル、残念なことにその作成は軽視されることが多い。自分は行政組織で仕事をしているが、ここまで働いてきた体感としては、「ほとんど重視されていない」という表現がふさわしかったと思う。
まるで、「本当は後任者が一から仕事を覚えないといけないけど、前任者が善意で少しだけマニュアルを残してあげる」という具合にである。
そうした流れで内容の薄いマニュアルを受け取ると、多くのことを自分で学んでいかなければならず、知識不足によるミスが生じては落胆する…、周りの人へ多数の質問をしなければならないために仕事のできない奴だと思われる…、後任者はそんな未来図を見てしまう。
この話については、どう思われるだろうか。個人的には、「本当は後任者が一から仕事を覚えないといけない」、なぜこのような前提が存在するのかは全く不思議なものである。
おそらくは、前任者は異動が決まれば業務の責任を全て後任者へ放り投げられる、こうした意識が浸透しているのだろう。いわば後任者をコケにするような姿勢があるのだ。そして、そのような姿勢が生じる理由は次のようになるのではないかと考えている。
前任者は後任者に比べて知識が豊富ということになるが、それを個人の能力差であるかのように捉えている、そういうことなのだろう。能力の低い者へ手を差し伸べるのは最小限でいいだろう、なんて思い上がりのような気持ちがあるのだと。それと同時に、後任者はそうした立場を甘んじて受け入れて耐え忍ぶべきだ、なんて観念もあるような気がする。
前任者と後任者で能力差の話が出ている時点でおかしいのだが、両者はあくまで対等な立場であって、前任者は後任者の負担を少しでも減らそうとして、なるべく後任者を不利な立場に立たせないようにすべきだろう。その心がけが組織内を潤滑させる役割を果たすことにもなるのだ。
「マニュアルを作成する時間がない」とはよく言われる話だが、マニュアルをひたすら後回しにする意識が前に出ている段階で、後任者への配慮不足が表れているのだと個人的には思う。
ここまでは行政組織の話を念頭にしてきたのだが、行政組織は最低限の仕事をするのが常なので、そのためマニュアルが軽視されるという流れにはなりやすい。
しかし民間企業など一般の組織に関しても、話を聞く限りではマニュアルが軽んじられているような感覚がある。民間企業であれば、後任者が知識不足であることで生まれる損失は、相対的に大きいような気がするのだが…。
それでもマニュアルが軽んじられるのは、やはり前任者のおかしな優越意識が幅を利かせているということなのだろうか。
以上マニュアルをめぐる精神面の話をしてきたが、その改善策を実践的に考えていくとして、次回に分けて述べたい。
攻撃的な思考停止ワードを安易に使う人は、教育者として残念だ
前回は、「そんなの常識だろ」「甘えるな」を始めとする攻撃的な思考停止ワードなるものを、5つ紹介させて頂いた。今回は、上司と部下、新人の間でこうした言葉が使われる背景について述べていきたい。
攻撃的な思考停止ワードというものは、「それを言っちゃあおしまいよ」という思考停止性を含んでおり、なおかつ攻撃的なものとなる。だからこれを言われると、部下としては反論もできずとにかく不満を溜め込むしかなくなる、というタチの悪さを帯びているのだ。この点は強調しておくべきことである。
上司としては、こうした思考停止ワードが出そうになるときは、原則的に自分のほうが誤っているということを意識したほうがいいだろう。思考停止ワードを言ってしまうと、部下を困らせることにしかならない。
もちろん、怠慢への要望、合理性のない自己判断、言い逃れや責任回避、こうした姿勢は新入社員、新人などにおいて多少見られることはあるだろう。新人などに対しては思考停止ワードを使って厳しく教え込むというのも一理ある。
ただそれでも、思考停止ワードを使うのではなく、具体的な分析でもって問題点を指摘するほうがよいのではと思う。そんな細かい時間をかけたくない、と考えるのはよろしくない。新人の教育には時間をかけて向き合うべきだし、思考停止ワードを使って簡単に片付けようとするのは、なんだか大人として情けないような気がする。
これは親の子供への教育においても同じことが言えるかもしれない。子供の教育も新人の教育と同じで、思考停止ワードを使って厳しくしつけるのは簡単である。しかしそんな親へは尊厳の気持ちを持てなくなるし、やはり具体的な分析で問題に向き合ってくれるほうが、親に対する敬意が生まれるというものだろう。
上司としては、新人に対しても安易に思考停止ワードを使うのは慎むべきだし、ましてや新人でない部下に対しては、思考停止ワードを使用するのはまず誤っている。 その点を進んで意識していってもらいたいものである。
「自分ごと」だと人は育つ 「任せて・見る」「任せ・きる」の新入社員OJT
- 作者: 博報堂大学
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2014/01/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
攻撃的な思考停止ワードあれこれ
日野瑛太郎氏の書籍や脱社畜ブログにて、「そんなの常識だろ」「甘えるな」といった言葉への批判が取り上げられていたのだが、この内容にはよく共感できるものがあった。こうした言葉は思考停止ワード、とりわけ攻撃的な思考停止ワードであるとして捉えられる。会社の上司などで、ある種のパターンをもってこうした言葉を吐いている人は確かに存在するだろう。
今回は、攻撃的な思考停止ワードとして「そんなの常識だろ」「甘えるな」を始め、自身が個人的に考えたものを追加して紹介してみたい。
・「そんなの常識だろ」
合理性のない決まりごとや慣習へ疑問を投げかけられた際に、開き直り的に出てくる言葉である。
合理性があるならその旨を説明すればいいだけで、この言葉が出てくる時点で、合理性がないことを認めているも同然となる。
・「生意気だ」
合理的な主張に対して、自分が年上ということしか反論できそうな材料がなくなったときに出てくる言葉である。
年齢のことを持ち出されると、それ以上の話ができなくなる。
・「甘えるな」
本来は怠慢への要望など、合理性のない提案をたしなめるための言葉なのだが、これを濫用してしまうということがある。すると、合理性のある提案が行われたときにも、そこへ無理に蓋をしようとするときに、この言葉が出てくる。
業務の簡素化の提案が最たるものだが、これに「甘えるな」で蓋をされると、もうどうしようもなくなる。
・「勝手に~するな」
本来は合理性のない自己判断で動いている人をたしなめる言葉なのだが、これも濫用してしまうことがある。すると、担当者がおよそ合理性のある自己判断で動いていたとしても、細かい部分で少しでも気に入らないことがあったときに、この言葉が出てくる。
これを言われると、何でもかんでも了解を得ないといけないのか、という息苦しさに囚われてしまう。
・「言い訳だ」
本来は、何か問題が起こったときに担当者の落ち度があったと言える部分があるのに、言い逃れや責任回避をしようとする姿勢を正すための言葉である。しかしこれも濫用してしまうということがある。
すると、問題は起こったが担当者としては義理を尽くしていたという状況があったとき、その説明をしているのに、乱暴に封じ込めてあくまで担当者の落ち度にしたいときに出てくる言葉となる。
担当者はできる限りのことをしていたと説明をしても、「言い訳だ」と封じられると、予期せぬことまで担当者の落ち度にされることになるわけで、担当者としては苦しくなる一方である。
おそらく代表的なものとして5つを挙げてみた。他にもあるかもしれないので、何かそうした話やエピソードを頂ければ幸いである。
そして、攻撃的な思考停止ワードが使われる背景についても説明をしてみたいのだが、長くなりそうなので次回に分けたい。