社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

女性ばかりに家事を任せようとする心理の原因

ふと雑感程度に思いついたので述べてみたい。

 

おそらく、この問題には家電などの技術を軸として考えることができると思う。

家電の技術が展開されていなかった時代においては、家事というものは

1日中かけて毎日行うだけの仕事量があったというのは想像できるだろう。

 

そのため、女性がこの役割を一手に引き受けることでも、十分な充足感が

得られたのではないかと思う。家電によって機械的に行う家事に比べ、

きっと作業のコツであるとか、自分の感覚を磨いていく場面も多かったのだろう。

そこで、男性が外で働いて女性は家事を一手に引き受ける、そうした概念が

本質的に形成されていったのではないかと思う。

 

それが家電の技術が大きく展開されていくことで、家事は急激に機械的な性質を得て

その作業を引き受けるだけでは、女性は十分な充足感を得られなくなった。

だからこそ、現代においては女性も家事だけでなく社会に出て働くことを

欲するようになったのだろう。

 

しかし上記で述べた、人間社会の本質の部分から考えると、女性は家事にのみ

専念しておればよい、そうした概念が根強く残ってしまうのだと思う。

 

ただ、人間社会の満足感を高めるために家電の技術が展開された、これは

紛れもない事実だ。そのことで女性が家事への専念では満足できないようになり、

社会で働くことを欲するようになったのならば、それは尊重されるべきことだろう。

 

家電の技術が発展した以上は、という理屈をベースに据えることで、

女性に家事へ専念することをいたずらに求めてはいけない、

ということの正当性がわかるのではないだろうか。

ラグビーW杯のロゴについて

headlines.yahoo.co.jp

 

素人の感覚だけれども、個人的には素晴らしいロゴだと思う。少なくとも、デザインの細部について詳細な議論を展開することができるほどの。

オリンピックのエンブレムは、デザインの細部について議論することができないほど、枠組やコンセプトからして不評を買っていたし、さらには盗作疑惑までついて回ってしまった。

なぜラグビーでこれほどのデザインができて、オリンピックであのようなデザインが登場してしまったのだろうか…。

 

やはりその理由としては、報道やネットで衆目の一致するところだが、デザインの選考で出来レースが行われていたこと、これに尽きると思う。このことは、出来レースやその経緯として生じている馴れ合い、身内びいき、内輪ノリといった精神がいかに粗悪なものを生み出すか、よくわかる話だったと思う。正直なところ、男子の100m走11秒台のランナーを「日本代表です」と言ってオリンピックへ送り込むようなものだったんじゃないだろうか。タイムが明確に現れる陸上ではありえないことなのだけども、そのようなことがオリンピックのエンブレム製作の場で起きてしまったわけである。

 

社会人はもちろん、学生といった立場でも起こりうることとして、馴れ合い、身内びいき、内輪ノリといった精神は今後の社会全体において、削減していくべきものだろう。

 

武藤議員の会見に見える、要職者が辞職から逃れようとする理屈

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000017-kyt-l25

 

取り沙汰されている武藤議員の問題について…事実関係が十分に確認されていない点はあるにしても、国会議員が投資詐欺だなんて、直ちに辞職してしかるべき問題だと直感的に判断できると思う。しかし本日の会見によると、どうも辞職はしない模様で…。

さらに唖然とさせられるのが、出てきたこの発言。

 

「失った信頼を取り戻すため引き続き取り組みたい」

 

こんな理屈を耳にする機会が増えたのは、気のせいだろうか。

サッカー代表監督の任命責任の話や新国立競技場建設費問題の責任もそうだが、なぜか最近は何か重大問題が生じたときに、要職に就く人が辞職して責任を取るということが少ない気がする。そしてお決まりになっているのがこの理屈。

どんな重大問題を起こしても自分には挽回を目指す権利があり、辞職を求められるいわれはないというあざとい意思が込められているのが透けて見える。自分が要職に就くことは(任期中なら)無制限に認められる、とでも言わんばかりの理屈なのだ。

 

要職というのは、「重大問題が起きた際には責任を取って辞職すること」が就任条件の1つとして備えられているとは言えないだろうか。問題を起こした本人は辞職して、別の頭によって問題の解決を目指すというのがしかるべき考え方だろう。

 

こんなあり得ない理屈を見ることが増えたのも、現代の日本には諸問題が山積していて、問題が起きてもいちいち責任者を代えていられなくなった、ということなのだろうか…と先が案じられる。

 

五輪エンブレムの盗作疑惑をめぐる「大人の対応」

東京オリンピックをめぐるお粗末な事態がとにかく続いている。日本人がこれほどまで精神的に弱くなったのか、あるいはもはや誰かが悪意を持って仕向けているんじゃないかとまで勘ぐりたくなるほど…。

その中で、今回は五輪エンブレムの盗作疑惑をめぐる話から自分の考えたことを述べてみたいと思う。

 

エンブレムの盗作疑惑は、デザイナーの佐野氏による数多の盗作疑惑、さらには盗作と本人が認めたものまでに彩られていて、ネットの喧騒が尽きないものになっている。

アメリカのデザイナーの盗作であることが明白となったものは、ネットでの追及を発端にしたものだ。

該当するアメリカのデザイナーは2名いて、1名は明らかな盗作により利益を得ていたのなら法的手段を検討する、と答え、1名は明白な盗作ではないから法的手段までは検討していない、と答えていた。

 

ここで気になったのは、法的手段までは検討していないと答えたデザイナーに対して、「大人の対応」と称賛する反応があったことだ。なぜに大人の対応なのだと?

他にも、ベルギーの美術館ロゴに関して、使用差し止め請求を行っていて見苦しい、対応の仕方が子供だ、売名だ、なんて論調も存在していたのは大いに疑問を感じた。

 

大人の対応という言葉は、スポーツで使われることが多い。プレー中に挑発してきたり感情的になってくる相手に対して、自分も感情で応酬するのでなく冷静に相手をいなすことをほめる言葉、と言えるだろう。こういうときは我慢することが大事なのだということであって、全くもってそのとおりである。

 

しかしデザイナーの件はどうだろうか? 相手が明らかな盗作をしてきているわけだ。

これに対して、法的手段を取らず冷静に相手をいなす…なんて態度が大人の対応なのだろうか? それは単なる泣き寝入りだろう。

明白な盗作はされていないから法的手段は取らないとしたデザイナーも、あくまで明白な根拠までは存在しないから法的手段は取らない、ということなのだろうと思う。

明白な違法行為を行ってきている相手に対しては、法的手段で対応するのは当然のことなのだ。これを我慢することは大人の対応でも何でもない。

 

また性懲りもなく日本人論となって申し訳ないが、法的手段を取らないデザイナーに対して大人の対応、なんて言葉が出るところに、日本人の「我慢の美徳」の精神が垣間見える。

相手が自分に何をしてきてもひたすら我慢するのが大人なのだ、なんて理屈は絶対に成り立たない。このことは覚えておきたい。

 

高圧による自滅

 タイトルの言葉は、高圧的な態度を取っているといつかはしっぺ返しが来るという、いたってシンプルだが普段よく見られる心理を表している。この言葉を実感させられる場面として、以下の2つを挙げてみたい。

 

 まず、仕事と育児を両立する女性に対して、育児をすることになると仕事は諦めないといけない、諦めるべきだ、という考えが高圧的に取られることがある。そういうことを言われていると、女性としては、なら子供を作るのを止めておきます、という考えにもつながるだろう。そうした考えが支持されてしまうと、出生率が低く抑え込まれるのは自明の話となる。

 ここで、昔の女性はそうじゃなかった、現代の女性はわがままだ、という話を持ち出すのもナンセンスである。女性は家庭にこもっておればよい、という考え方がいつの時代も通じた普遍的なものでないのは明らかだろう。

 また、仕事と育児の両立を容認するとしても、旦那は育児を手伝わないぞという心理を持つことも高圧さの典型である。こうした考えで妻に育児を押し付けてばかりでいると、熟年離婚という事態を招く恐れがある。やはり自滅である。

 

 前にも書いた、沖縄基地にかかる沖縄への軽視もこの理屈につながるだろう。自国の領土であるにも関わらず離島や辺境地への軽視を続けていると、いつかは国家からの離反を決断されて他国へ編入され、その結果自国の領土が縮小するという致命的な事態を招く…なんてことも起こり得るんじゃないかと。

 「どうせ離反するような度胸はない、軽視を続けてしまえ」なんて見くびりや思い上がりを持つことはやはり危険だと思う。

 

 もちろん、高圧的な態度を取り続けることの危険性は、局面のところでは認識されているようにも感じる。新国立競技場の建設が白紙に戻ったのも、さすがに民意の反発が危険水域に入ってきたからだと思う。現代の日本では、独裁が行われたり、合わせて民意もおかしな方向へ振れてしまうようなことがないのは、安心できる点だろう。

 とはいっても、時代環境の変化でいつ価値観が逆行してしまうかはわからない。そこへ備えて、「高圧による自滅」この理屈だけは常に頭に入れておきたい。 

 

絶歌と新国立競技場に見る不条理

 最近社会を賑わせているこの2つの話。何気に不条理の極みが現れているものとして…以下概観したい。

 

 絶歌については、何より商業出版であることがまずい。
 これまでも様々な犯罪者の手記というのは出版されてきたみたいなのだが、それが商業出版であることのまずさが、今回の件であぶりだされた様に思う。
 犯罪者の心の内を見ることに社会的な意義があると判断されるのであれば、監察官や犯罪心理学者が日々の聞き取りを行い、その内容をまとめたものを無償で一般公開するという仕組みにはできないものなのだろうか。それか、話題に上がっているサムの息子法の適用でも構わない。
 とにかく、商業出版であることが話を歪なものにしていて、遺族をいたずらに傷つけることになる点で、強制的な差し止めが可能であっていいと思う。
 それでいて出版社の強行(凶行)がまかり通るのは、どう考えても「不条理」だ。擁護のしようがない。

 

 そして新国立競技場。この話もひどく失望させられる。
 どう考えても予算が不足しているのに、なぜ従来ではありえないような巨額の建設費が承認されてしまうのか…。こうしたハコモノには、計画段階では計画者の見栄だメンツだなどとの批判が加えられても、完成したらしたで市民は喜ぶものですよ、という側面は確かにあるのだが、今回だけは建設費が巨額過ぎる。そうした側面の効果を打ち消して余りありそうなほどに。。
 これだけの巨額の建設費が強行(これも凶行)して承認されてしまうというのも、
どう考えても「不条理」だ。これも擁護のしようがない。

 

 さらに思うのが、これほどの露骨な不条理は、たぶん自分の生きてきた記憶では
聞いた覚えがない気がすること…。
 日本の危機的な財政状況や社会的な閉塞感を原因として、段階的に社会に穴が開いてきているために、そこから不条理が噴出してきているのかと…そんなイメージが思い浮かんでしまって末恐ろしい。
 こうした不条理には社会の正常なコントロールが効いていないわけで、そんな話が
頻繁に上がるようになれば、民主主義も何もあったものではなくなるだろう。

 

 まあ、こうした不条理は社会の歴史上で考えると何度かはあったもので、それに付き合いながら社会が進展していくほかない、と考えられるようなものであればいいのだが。。先行きが心配だ。

 

安保法制にかかる沖縄への心情について思うこと

 自民党の勉強会で、百田尚樹氏らをはじめえらく沖縄を侮蔑する発言が続出していることについて…。きわめて政治的な話なので突っ込んだ話はできないが、一市民として思うことを。

 

 単純な話、一市民としても観光地としての沖縄を思う際、綺麗な海とか食べ物とか、沖縄に対して楽園的な幻想を抱くばかりであると…この話題を通じてそう気付かされたのだが皆さんはいかがだろうか。

 首里城などの歴史建造物へ関心を寄せることはあっても、戦争に係る歴史について触れることがほとんどないように思う。もしかすると広島や長崎でそうした話は一杯だからなのかもしれないが、沖縄は日本で唯一の地上戦が行われたという意味で、積極的に関心を持つべきだろう。しかし沖縄と言えば海だ食べ物だとばかり…。

 

 一般の観光客としても、沖縄のそうしたシリアスな部分には触れようとしない姿勢を考えると、本土の人間の意識というのは戦時中から変わっていないんじゃないかと思わされる。

 本土の人間がいつまでもそうした意識でいると、沖縄はいつか中国の属国になって日本へ仕返しをするのではないかとさえ言われている。右翼的な発想はそんなところまで行き着くものかと驚かされるものだが、島しょ部、離島といった地域の事情をここまであっさり切り捨てようと考える時点で、発想が右へ偏ることの恐ろしさを感じさせられる。

 

 まあ、この自民党の勉強会自体へは処分が与えられたことで、暴走を自制する意識は感じられた。最終的に沖縄基地を県外へ移設するという構想は難しいとしても、沖縄への配慮は慎重に行っていくべきだとは思う。基地問題に反対する沖縄に対して、右翼的に横暴な批判を加えることは慎むべきではないだろうかと。