社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

イスラム人質による自己責任論

今日は連載と別に2本目の記事を書きたいと思います。今世間を騒がしている事態について。

 

2004年にもイラクで日本人3人が拘束されたときがそうだったと思うのですが、「危険な地域へ勝手に立ち入っているんだから自己責任だ。自分で責任を取れ、国に迷惑をかけるな。」という論調が大勢を占めていたように思われます。そして今回の件も同様ですね。

これは考え方が二分されるようなもので、非常に難しい話だと思います。人生における二択の1つとでも言うか。

 

ここでの二択というのが、

 

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」

「君子危うきに近寄らず」

 

のことですね。

社会における危ないものに近づいてそれを改善しようとするか、危ないものはあくまで避けるべきか。

この二択が日常の場面でも現れることも多いかと思います。

 

自分の話で恐縮ですが、車を運転していて危ない運転をする車に出くわすことがあります。

正義感に従えば、こうした車に対して何らかの警告を与えることで、今後は危ない運転をするなというメッセージを与えたくなる衝動に駆られます。「世直し」の感覚です。

ただ…危ない運転をする車には、「危ない人」が乗っている可能性があります。本当に車をぶつけてきて、何か暴力的な因縁をつけてくるような。

こうした人と関わるのは全くもって回避したいもので、自分は危ない運転の車は無視すると決め込んで運転するようにしています。

これはまさに「君子危うきに近寄らず」の考えですね。

 

で話を戻して中東の紛争地域ですが、ここは現代社会では理解しがたいほど血なまぐさいことが行われています。そして、日本のような平和な国家からはこのような地域へ行くべきでない、という理解が取られるのが一般的です。これも「君子危うきに近寄らず」の理屈ですね。

 

しかし、、危ない運転をする危ない人というのは社会のごく一部なわけであり、こうした危険な層はただひたすら回避すればよいと思うのです。が、中東の紛争地域というのは、中東の国家、宗教単位で行われているわけです。

「危ない国家、危ない宗教」としてひたすら回避すればよい、という考えを取ることもできますが、ひたすら回避するにはその範囲が大きすぎるような気がするのです。「一部の危険な層」と言うには難しいほど。

 

国家、宗教規模の危なさに対して、ひたすら回避するとなると、「事なかれ主義」にも陥るような気がしてしまうのです。回避するには適切でない規模の話まで、目を背けてしまうような。

 

話が違うのかもしれませんが、日本においては非正規労働など、一般的に可愛そうと言われている集団の存在について、まるで自分達には関係ない、とその問題を安易に回避するような姿勢があるように感じられるのです。それが社会的になかなか大きな問題であっても。

でもしかして、今回の自己責任論が大勢を占めているのも、こうした姿勢が反映されてのものなのかと思うわけです。

 

中東の紛争地域は、安易に回避するのが適切でない規模の話であるので、ここは君子危うきに近寄らずではなく、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の姿勢を取るのもあながち間違いではないのかと…。なので、ジャーナリストといった形で関わろうとするのはそれを体現していると。

それで人質に取られても、本国の政府、国家としては文句を言いたくなる思いに駆られず、単純に毅然と相手との交渉を行えばよいと…それが結論です。

 

かなりの長文になってしまいましたが、この事件に関する自分の所感を述べてみました。

見解の割れる話ですが、もしご意見等いただければ幸いです。