社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

残業の類型、とりわけ「見せかけ残業」について

 自分は管理職以外の残業は法定外のものとして原則行うべきでないという考えに立っているが、それでも社会的に平然と生じている残業について、今回は述べたいと思う。

 

 いそがしいいそがしい残業しなければと人が言っていても、本当にいそがしいのか、その人の効率が悪いだけなのか、あるいはわざといそがしいふりをしているのか、傍目では本当にわからないものだ。
 順に「多忙残業」、「鈍足残業」、「見せかけ残業」と呼べるもので、見せかけ残業はさらに派生して、残業代を稼ぐため故意にいそがしいふりをして時間を稼ぐ「生活残業」、上司より先に帰りづらくて時間を稼ぐ「付き合い残業」など、残業には本当に多くの類型がある。
 子供からすれば、残業というと親が立派に働いている画を想像するものだが、まだ立派といえるのは多忙残業だけで、他は情けないことこの上ない残業だ。しかもこんな情けない残業で家庭を顧みないなんてこともあるかと思うと…。

 

 情けない残業のうち、鈍足残業は本人の資質によるものでどうしようもない部分はある。広い世の中にはそういう人も一定数いるのだと割り切るしかない。(もちろん本人の最大限の努力は求めるが…)

 

 ただやっかいなのが、見せかけ残業である。なぜいそがしいふりをするのかという理由が一見するとわかりにくいが、最大の理由は仕事を押し付けられないようにするため、ということになるだろう。
 効率よく業務を進めて手を空けていると、手を空けている時間はどうしても暇そうに見られる。自分の担当分を早めに終えたとはいえ、暇そうに見られると仕事を追加される恐れが出てくる。だから手を空けている時間が出ないよう、わざと効率を落とすことで時間を埋めていそがしいように見せかけるのである。
 またさらにやっかいなことに、定時で帰っていることでも暇そうに見られてしまう。あいつは定時で帰っている、暇そうだ、仕事を増やしてしまえ、という具合に。なので、定時まで時間を埋めるだけでなく、ほどほどの残業時間になるまで時間を埋めることになる。そうしてもちろんのこと不要な残業代が発生する。

 

 上司や使用者が正しく業務配分、管理をできていれば、手を空けている時間を出していたり定時で帰っていたりしても、「処理が早いのだな」と感心してもらえるはずなのだが…。上司や使用者というのはおよそ正しい業務管理はできないものであって、手を空けていれば表面的に暇と捉えるのである。また定時で帰ることも表面的に暇と捉える。
 まことに残念な話だが、現状として日本の上司や使用者がこういうものである以上、手を空けている時間を出さない、加えて少しは残業する、ということが行動原理となってしまい、見せかけ残業が発生する。この点は鈍足残業をする人がいるのと同様、どうしようもない話なのかもしれない。

 

 このように長らく根を張ってきた上司や使用者の感覚がある以上、見せかけ残業の改善にはほとんど突破口が見えないということがしみじみわかってしまう。定時で帰ることを暇と捉えられる、適正な業務管理がなされていない…労働者にとっていつまでもこんな感覚に苛まれるのはずいぶんと夢のない話だ。

 

 以下、考えられる改善策を1.2.のとおり整理してみる。実現が困難なように見える中、定時で帰るのを暇と捉えないこと、こちらのほうがより現実味があり大きな意義があるようにも思える。


1.上司や使用者が、労働者が定時で帰るのを暇と捉えないようにすること
 定時で帰るのを暇と見られなければ、見せかけ残業でわざわざ少しだけ残業して帰るという工作をする必要がなくなる。見せかけで業務時間を延ばすにしても、定時までにとどめるようになるわけである。
業務時間を延ばすのが定時までにとどまるのであれば、それ自体は姑息なようにも思えるが、少なくとも残業代は発生せずに済むようになる。そうして残業代が浮けば組織にとっても有益なはずで、メンバー全体分となればなかなかの額となりそうだ。

 

2.上司や使用者が、適正な業務量管理を行うこと
 業務量管理というのはなかなか難しい。メンバー1人1人の業務を見て、この業務は何時間かかるというのをつけていき、メンバー全体のその時間数を均等にするということだが、担当者によって要する時間が異なったりする。なので、何代かにわたって同じ業務を担当してもらい、平均の所要時間を割り出す…ということが必要になるのだが、まるで追跡実験であって容易でないのはすぐわかる。いつかは、社会的にこうした取り組みが行われるような努力が見えていけばとは思うが…。

 

 2.はいわゆるジョブディスクリプションに通じる概念であり、ここまで実現できれば、無駄な残業時間の抑止のみならず、定時内でも手が空いた時間を堂々と出せるようになる。ただ日本においてほぼほぼ馴染みのない概念なのは確かであり…となるとやはり、1.の定時で帰ることを暇と捉えないようにする、それにより無駄に少しの残業時間を出す必要をなくす、こちらが今後優先的に実現させていくべき案となるだろう。

 

 個人的には、定時で帰ることを暇と捉えないようにすることだけでも、自分の子供が働き始める頃までには叶っていてほしいと思う。社会的に定時で帰るのが当たり前に捉えられれば見せかけ残業は減るだろうし、生活残業や付き合い残業で変に残業時間を延ばすことのけん制にもなる。子供が働く頃に、大人たちはこんな情けない残業をするものなのか、という幻滅感を覚えてほしくないと願わずにはいられない。

 

「実家の親に手伝ってもらえばよい」の安直さ

小さな子供を抱えている身としては、子供が熱を出して3日4日と休まなければならないというのは、仕事をする上で堪える。だが、妻が専業主婦でいれば面倒も見やすいのだ…なんて考えるのは今の時代浅はかなものであって、共働きを前提にしながら子供の病気、子供の世話に向き合うことを考えなければならない。
そして、共働きで働きたいというのはわかるが、それならば子供のことは実家の親に任せればよい…続いてこんな発想になるわけだが、自分としてはこの発想も浅はかなものだと感じる。

 

子供が熱を出しやすい、家で1人にはできないという時期は、およそ6歳までと考えられるわけだが、平均的にその祖父母の年齢は60代ということになる。この方々に孫の面倒を見てくれと頼むことになるが…。
現代の感覚として何となくわかると思うのだが、今の60代は本当に元気だ。言い換えると、60代でも楽しみや刺激が多いために活力に満ちている、つまり自身の楽しみをまだまだ持ち続けている、ということになる。これは昔にはなかったことだろうし、医療の充実もあるけれども、決定的な要因はネット社会の拡大にあると思う。60代でリタイアを迎えるような時期にあっても、ネットワークにより外部の様々な楽しみに簡単に触れられるようになったのが非常に大きい。そして…このような活力に満ちた60代の方々に、孫の世話にでも専心しておいてくれ、とは誰が言えるだろうか。

さらに、親と同居はしたくないしすぐ近所なのも嫌、ほどほどに離れたところに住むのが一番、という親子間の住居面の心情もあるし、60代であれば仕事を普通に続けているということがある。となると、当たり前のように孫の世話を日常的に頼むのはどだい不可能なのだ。

 

こうした現代の時代背景を見るに、実家の親に手伝ってもらえばよいと簡単に考える裏側には、60代の人は「子供と同居かすぐ近所に住んでいて」、「仕事をしておらず」、「自身の楽しみも持っていない」、ならば孫の世話をするのにちょうどいいだろう?なんて意識が潜んでいることがわかる。これはまさに60代の方々の権利意識を軽んじた、時代錯誤ともいえる感覚だ。
(平気でこれら3点もの権利を軽んじているのだから、恐ろしいものである。)

 

やはり、子供の育児というのは夫婦2人で完結させるのが原則であって、実家の親に頼むというのはあくまで臨時的なサポートとしてのみ望むべきだろう。職場の側も、その原則を頭に入れ込んでおくべきなのだ。

 

正直なところ、親が自身の権利を我慢しても子供夫婦へ日常的なサポートを行うに値するのは、夫婦共働きでいずれかが医者や弁護士などをやっている、そういうケースに限られると思う。やはり、医者や弁護士といった社会的に確固たる地位を有している職業であってはじめて、孫の世話で親のサポートを惜しみなく受けるに値するのではないかと思う。
ただこれは言い換えれば、共働きでいずれも普通の勤め人でしかないのならば、親の援助を日常的に受けるには値しないということになる。普通の勤め人同士で、いずれかが少しばかりの出世をする…そんな程度の状況に面して、「親の日常的なサポートが必要になる」などと安易に考えるのはいかにも社畜的に映る。(同様に、少しばかり出世する程度で奥さんが専業であることが必要、と考えるのもいささか社畜的だ)


やはり、普通の勤め人同士であるならば親に我慢はさせず、臨時的なサポートを受けるにとどめるべきだし、職場もそうしたメンバーは夫婦だけで子育てを完結できるよう配慮すべきだ。職場が親のサポートを当たり前のように語って子供の病気で休むことをけん制するというのは、どうにも適正なことだとは思えない。

 

もちろん中には、孫の世話をすることが楽しいと思える人もいるので、親がこうした人であるなら普通の勤め人であっても日常的なサポートを頼むのに何ら問題はないだろう。だがむしろ、現代ではこうした人のほうが少数派になっているのは明らかなわけで、にも関わらず職場が親のサポートを当たり前のように語るというのはやはり間違っているし、時代錯誤であるとしか言えないのである。

 

年度末、年度始めへの安易な威厳づけ

4月も終わりを迎え、年度末から年度始めの膨大な業務量からようやく解放されつつあるという人も多いと思う。GWはこうした経緯もあって思い切り羽を伸ばしたくなる気分になる。社会的にそうした流れが確立されているので、それは結構なものだと思う。
しかし年度末から年度始めの非人道的な業務量はどうにかならないものなのかと、毎年思わされるのも事実であり…このことについてもまた、安易な威厳づけの理屈でもって疑義を呈したいと思う。

 

業務に年度で区切りを入れるのは当然のことではあるのだが、その分年度末から年度始めというのは、とにかく業務量が多くなる。そこで自分のように小さい子供を抱えている人にとっては、職場は慌ただしい空気に飲まれているが、保育園の時間が延びるわけではないので、切り上げて帰らないといけない…というジレンマがやってくる。(ここでもまた実家の親に頼むということは前提にしない。)

ただ、なぜこのような事態が当然に訪れるのかを疑問に考えると、年度末と年度始めにまで他の月と同じルーチンが持ち込まれているからではないか、ということが何よりも思い浮かぶ。
例えば経理の手続であれば当月分の支払内容を翌月中に処理するとか、人事の手続であれば当月の採用者の手続を当月の早いうちに完了させるとか、そういった毎月のルーチンがあるだろう。

 

しかし年度末や年度始めというのは、当然ながらこの量が膨れ上がる。そして量が膨れ上がっているにも関わらず、他の月と同様に毎月のルーチンとして処理するのが自然なものと捉えられてしまうのである。
経理であれば3月分の支払内容は件数が膨大であるのに、4月末までに処理することが必要だと当然に捉えたり、人事であれば4月の採用者は多数に上るのに、4月の早い時期に採用手続や採用者へのフォローを全て完了させることが必須と捉えたりすると、年度末や年度始めの一定時期に業務の負荷が異様に高まることとなる。
こうして負荷が高まっているところに、長時間労働が叶わないメンバーがいると、たちまち行き詰ってしまう。(それでも無理に処理を終わらせるのだろうが…)

 

思うに、業務を年度で区切るのが必須のこととはいえ、年度変わりの負担は可能な限り緩和して最低限にとどめようとするべきではないだろうか。年度末、年度始めという時期を、「大変な時期なんだから」と安易に威厳づけて、無批判に異様な業務量を受け入れる…こうした意識をあくまで持つことには問題があるように思えてならない。

 

負担を緩和する流れとしては、やはり年度末や年度始めに膨れ上がる業務を他の月にも回してなるべく業務量の山を平たく均す、ということになるだろう。
経理の話であれば、3月分の支払内容は5,6月にも処理を延ばして行うとか、人事の話であれば、4月採用者は4月に最低限の採用手続のみ行って、その他フォローは5,6月に回すとか、年度末や年度始めに限ってはそうした特例的な扱いを認めることができないものだろうか。

 

この話も、前回と同じく威勢よく書いているものであり、何を言っているんだと思う人も多いだろう。3月4月で件数が多いとはいえ、手続が遅くなれば信用に関わる、と思う感覚もわかる。それでもここは、労働者の人道面に立ち返って考えたい。膨大な業務量に平気で晒されるというのは、日常生活の面に支障を来すのは明らかで、こうしたことを年1度とはいえ毎回続けているのはやはりおかしいと思わずにはいられない。
社会的な意識の変化によって、3月4月の業務に関しては、ある程度手続が遅くなることに寛容になる…現実的ではないように思えても、あくまでこんな社会を理想として描いていたい。

 

職位への安易な威厳づけ

 前回は仕事内容を安易に重く考えることで安易に残業時間を増やしたり年休の取得を難しくしたりする、そんな心理について述べた。
このような安易な威厳づけというのは、職位に対しても生じる。今回はこのことを述べてみたい。


 年度末のこの時期、業務量も多く部署を回すのが大変になることも多いだろう。年度末に限らず、慢性的に業務量が過大にのしかかっている部署もあるだろう。

 そして自分が正社員の場合、そうした状況に面した時には「正社員だから残業しないと…」自然とこう受け止めることが多いものだ。部署に非正規、派遣の方がいればその意識は自ずと強められる。

 

 しかしこれもおかしな話だ。第一に考えるべきなのは、業務量の配分が過大であること、組織の仕事の進め方に問題があること、といった使用者側の原因ではないだろうか。

 そうした使用者側の原因を考慮することなく、労働者へ長時間労働や年休の我慢というしわ寄せがいき、正社員が最優先でその矛先となるわけだが…正社員は安定した雇用が保証されている、それだけの権利でもって長時間労働や年休の我慢を強いられるいわれはないだろう。

 非正規や派遣の人に比べれば恵まれているかもしれないが、安定した雇用が保証されているのは、人道面で考えれば当たり前の権利だ。そんな権利と引き換えに長時間労働や年休の我慢を引き受けるというのは、考えてみれば割に合わない。

 

 「正社員だから残業しないと」ではなく「自分は正社員なだけなのだから、おかしな業務量は勘弁してくれ」と主張するのが正しいはずなのだ。 

 自身の職位を安易に威厳づけて、残業を安易に引き受けるのでは、使用者側の問題を正当化することにしかならない。自分のような立場の者が残業を引き受けるのはおかしい、と抵抗すべきだ。

 

 正直なところ、長時間労働を引き受けてしかるべきなのは管理職のみであり、それは管理職から残業代が出なくなるということを見ても明らかだろう。

 正社員として少しばかり出世したときにも、この理屈はあてはまる。「出世したのだから残業を引き受けないと…」と安易に考えそうなところなのだが、少しくらい出世したところで、管理職に満たない職位であるならば、安易に残業を引き受けるべきではないとも自分は考える。管理職でないならば残業時間は法定外のものとして、原則的に引き受けるものではないのだと。

 使用者の側の責務として、長時間労働が発生するにしてもそれは管理職だけが引き受けるにとどまるよう、努めるべきなのだ。

 

 ここまで威勢よく書いてきたが、もちろん日本人の勤勉さを考えるに容易な解決がとても望めそうにない問題だとは思う。非正規や派遣といった職位が安易に広がったことで、正社員の職位が相対的に高まってしまったのもある。だが、正社員なだけであれば、おかしな業務量を課されるいわれはない、社会的にこの意識が強く持たれることは望みたい。 

 

仕事内容への安易な威厳づけ

今回は、育児参加への妨げや長時間労働を生む要因の1つとして、仕事内容へ安易な威厳づけを行ってしまう心理について述べたいと思う。

 

仕事をしている中で、職場的に重要そうに思える仕事内容というのがある。会議、来賓対応、講演会など、様々な関係者との調整を要するものがその代表格だろう。外部の人間が絡むとなるとその重要度はいっそう増す。

そうした仕事が、業務時間の後ろのほうに設定されることもしばしばあるだろう。業務時間の定時を超え残業が生じることも容易に想定される。そんな仕事内容に面したときに…

 「この仕事だったら残業もやむなし」

こんな心理に直ちに及んではいないだろうか。思考停止的にこう考える心理は、おそらく大多数の職場で起こっているものだろうと推測される。この感覚は日本人の価値観に基づいて、無意識のうちに刷り込まれているレベルの話であるだろうし、相当に根が深い。

 

2時間かかるような会議が定時の1時間前開始に設定されていれば、間違いなく残業が生じる。そもそも会議自体が定時後の開始で設定されている、こんな呆れる話は昨今の長時間労働見直しの流れを受けて減っていくのだろうとは思われるが、定時内には開始するが終了するのは間違いなく定時後になる、こんな設定は依然として広く存在しているだろう。

こんな設定を目にするにつけ、本当にそんな設定が必要なのか、定時内に終わらせられるような調整は本当にできないのか、と思わずにはいられなくなる。

 

外部の来賓があったとしても、その人が本当に定時外にかけてでしか来ることができない、というケースであれば、例外的にやむを得ないものとして対応する必要はある。しかし、定時内に終了するということを第一に打診し、それを簡単に譲らないくらいの姿勢は持つべきだ。

外部の来賓に対してさえこのような姿勢を求めたいわけで、内部の人間だけで行う会議を簡単に定時外にかけて設定するというのは、ただ安直としかいうほかない。

 

慣例としてそんな設定が維持されているという会議があれば、慣例だから仕方ないと安易に受け止めることもよくあるだろう。しかしこんな姿勢にも疑義を呈したい。定時外にかかるような仕事内容には、どんな慣例があれども慎重に疑ってかかるべきだ。

 

長時間労働をめぐる問題には、何やかやと「○○のためだから」と安易に威厳づけを行い、思考停止を起こして深く考えることなく残業を受け入れる、こんな心理が根深く関係している。

「安易な威厳づけ」この言葉を定義してこうした心理をあぶり出し、広く抵抗がなされていくことを望みたい。

子育ての障壁となる安易な転勤

 自身の親世代などを見てきたところでは、仕事をする上で転勤というものは不可欠であり、ごく自然なものであるとして語られてきた気がする。しかし、女性も仕事に就くことが多くなった時代の流れや、自身が子育てをする中での感覚として、転勤を当然に捉えることには違和感を覚えてきている。このことについて述べてみたい。

 

 転勤はそもそも、「社員の成長のためには、各地の勤務場所を経験することが大事…」という感覚で実践されてきたのだと思う。

 しかし、このネットワークが整備された時代には、転勤までしなくとも得られるはずの意義のために、大げさにも転勤という仕組みが取られてきたのだとも思う。

 もちろん、会社の幹部候補の人であれば、現地にしばらく居てこそ得られるものを吸収していく必要はあるだろう。だから各地への転勤が必要だというのはわかる。しかし言い換えれば、幹部候補の人でなければ、わざわざ転勤まで大がかりに行わせる必要はないのではないか、と思わずにはいられない。

 幹部候補ではない人であれば、安易な転勤は行わずに家庭を顧みたほうがよいし、小さな子供のいる人であればなおさら、その倍以上は家庭に寄り添うべきだ。しかし転勤への安直な概念は、そんな小さな子供のいる人、あるいはこれから子供を作ろうとする新婚の夫婦であったり、そんな人でさえ転勤の対象にする。

 

 奥さんは専業主婦で転勤についていけなくはない、子供の学校を変えることも容易である、そんな人であれば転勤は問題なく可能であって、安易な転勤の概念はこうした家族状況を前提としてきたわけである。

 しかし、ここで子供の学校を変えることが心情面含め容易ではない、という条件が加われば単身赴任が必要となり、奥さんは1人での家事育児を迫られる。子供がまだ小さければ、その負担はさらに増大する。

 さらに、これが近年の重要な変化になるのだが、奥さんが仕事をしている(続けている)という状況がしばし想定される。そうなれば無条件に単身赴任が決定する。奥さんは仕事をしながら1人で家事育児をこなす必要が出てくる。これで子供が小さければ、奥さんにとってはどんな過酷な日々になってしまうのだろうか。

 (近くの親に手伝ってもらえばよい、なんて話も簡単に出てきそうだが、最近は「孫疲れ」なんて言葉も挙がってきたことを思えば、こんな発想は安直に行えそうもない。)

 

 さらに自分が問題だと思うのは、新婚の夫婦に対して、奥さんが仕事をしているにも関わらず、夫への転勤命令が安易に下ることだ。

 新婚でこれから家族計画を立てていこうというところに、夫が単身赴任を迫られるとなれば、その計画はたちまち難航してしまうのは明らかだ。奥さんの出産適齢期とうまく調整できず、子供の数の希望が叶えられなくなるというのは十分ありうる話だろう。

 女性も仕事に就くことの多い時代に、こんなことを続けていれば少子化になるのは目に見えている。

 

 専業主婦の奥さんであれば、子供が小さくても1人で家事育児をこなすことは、一歩譲って仕方ないと考えることはできる。(それでも厳しいとは思うが)

 ただ少なくとも、奥さんが仕事をしている上で、子供が小さいかあるいは新婚で家族計画を立てている、そんな夫に対しては、転勤をさせるのは厳に慎むべきだろう。

 転勤に明確な根拠を見い出せるわけでもなく、上記のような状況にある男性にまで転勤をさせるというのは、もはや狂気の沙汰とさえ思えるのである。

 

マミートラックからのゆるやかな復旧

前回書いた内容の補足にもなるが、マミートラック、パピートラックにおける問題点を整理してみたい。

 

最近目にしたところで、「産休育休で長期間仕事をしていなかった上に、復帰後も子供に手がかかるのに元のポジションに戻りたいなんてわがままだ」という意見があったのだが、これには一理あるように思えた。

ただこの理屈はシンプルなようで、細かく論点を整理しておかなければ意味合いがずいぶん変わってくる。

 

この理屈が濫用されると、産休育休のブランクや復帰後の子供の手間を考えると、女性は出産と同時に仕事を辞めるべき、という前時代的で乱暴な話になる。

ポイントとしては、復帰しても構わないがいつ元のポジションに戻れるか、キャリアを再開できるか、というタイミングのところにあるだろう。

 

このタイミングが復帰後、「直ちに」元のポジションに戻りたいというのでは、たしかにわがままなように思われる。子供の手間がかかり、毎日定時で帰宅したり子供が病気をしては早退して看護休暇を取るという状態では、単身の状態でこなしていたポジションに戻るというのは、たしかに非現実的だろう。

 

ただ、だからといって復帰後は一切元のポジションに戻れることはなく、キャリアは再開できない…となると、これもまた暴論になる。子供の手間がかかることで仕事上で役立たずの烙印を押され、キャリアを絶たれるというのでは厳しすぎる。

 

もちろん、ずっと家事育児を優先していたいのでキャリアはもう再開しなくてよい、という女性も多いわけであるが、再開できるならそうしたいという女性も一定数いるわけで、子供の手間が一段落した状態であれば、その希望は叶えられてしかるべきだろう。ここが落としどころになるのだと思う。

 

子供が小さいうちは育児に集中する人はキャリアを抑えた状態で保護を受け、育児が一段落すれば本人の希望次第でキャリアを速やかに再開できる。前回述べたパピートラックも同じことが言えるのだが、このように一度キャリアを下りた上でゆるやかに復旧していく、そんな枠組みが最も適切なものとして、広く理解が浸透していくことを期待するところである。