社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

人々の生来的なエネルギーと社会制度による抑制

年の瀬も迫る中、近い将来に向けて最近思っていることを書いてみたい。きわめて漠然とした話になってしまうがご了承を…。

 

まず近い将来にタイトルと最も関連してくるであろう、車の自動運転について触れてみたい。東名高速において車を無理に停車させ追突させた事件のインパクトはすさまじく、社会的にも危ない運転をしてはいけないという意識が広まったのを感じた。しかしそれでも、最近自分が運転していても、相変わらず無理なスピードで車間距離を詰めているとか、遅そうな車や車線があれば無理にでも抜いていこうとするとか、そうした危ない運転をしている車をまだまだ目にする。
そこへ自動運転の技術が登場するわけで、高齢者ドライバーなどの過失事故や、こうした故意による危ない運転を飛躍的に抑制することが期待できる。自分としては、車の安全確保は利便性よりも絶対的に先んずるべきと思っているので、自動運転技術にはもろ手を挙げて賛成するところである。


ただしかし、気になるのは…過失事故は無条件で抑制されるべきにしても、故意による危ない運転を抑制したとしたら、そうした攻撃的なエネルギーはどこへいくのか、ということである。
既にタバコについては、社会的に抑制する流れが生まれたのを受けて喫煙者は激減したと思われるのだが、人々のタバコを吸いたいエネルギーも同様に、どこへいってしまったのだろうか。

 

不十分な制度で人の心へ無用なエネルギーを余分に発生させていたのであれば、それは制度の改善によって無条件に抑制されるべきだろう。これなら単純な話である。
しかし実際のところでは、そうしたエネルギーは人の心に生来的に存在するエネルギーであって、それを抑制すると他の方向へ向かっていくようなものではないかと思う。そうした生来的なエネルギーを多数の人が心に押しとどめて過ごしているとすれば、何かよからぬ方向でそれが暴発するとか、人々から必要以上に生気が失われてしまうとか、そういったことが危惧される。
車の危ない運転や身勝手な喫煙というものは、常識的に考えれば抑制されてしかるべきものであるが、無条件に抑制することで、人の心のエネルギーを抑制し、社会から活気を奪うという側面があるように思える。近年の社会が閉塞感に覆われているように感じられるのも、社会の制度が洗練されすぎてきており、人々の心への抑制が効きすぎているという面があるのではないだろうか。
こう考えると、社会の制度に多少の身勝手さを許す部分を残しておくことが、社会の活気を保つのに必要なのだろうかと思えてくる。

 

かといって技術や価値観の進歩は人類にとって必須のものであるし、制度改善を目指すことは社会の使命である。これを否定することはできない。
となると、技術や価値観を進歩させていくべきものという前提に立ったうえで、その中へあくまで人間らしい最低限の身勝手さを残しておく…そんな絶妙なバランスを保った社会が実現するのが理想なのだろう。今後の社会はその理想をどのように追求できるのだろうか。