社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

年度末、年度始めへの安易な威厳づけ

4月も終わりを迎え、年度末から年度始めの膨大な業務量からようやく解放されつつあるという人も多いと思う。GWはこうした経緯もあって思い切り羽を伸ばしたくなる気分になる。社会的にそうした流れが確立されているので、それは結構なものだと思う。
しかし年度末から年度始めの非人道的な業務量はどうにかならないものなのかと、毎年思わされるのも事実であり…このことについてもまた、安易な威厳づけの理屈でもって疑義を呈したいと思う。

 

業務に年度で区切りを入れるのは当然のことではあるのだが、その分年度末から年度始めというのは、とにかく業務量が多くなる。そこで自分のように小さい子供を抱えている人にとっては、職場は慌ただしい空気に飲まれているが、保育園の時間が延びるわけではないので、切り上げて帰らないといけない…というジレンマがやってくる。(ここでもまた実家の親に頼むということは前提にしない。)

ただ、なぜこのような事態が当然に訪れるのかを疑問に考えると、年度末と年度始めにまで他の月と同じルーチンが持ち込まれているからではないか、ということが何よりも思い浮かぶ。
例えば経理の手続であれば当月分の支払内容を翌月中に処理するとか、人事の手続であれば当月の採用者の手続を当月の早いうちに完了させるとか、そういった毎月のルーチンがあるだろう。

 

しかし年度末や年度始めというのは、当然ながらこの量が膨れ上がる。そして量が膨れ上がっているにも関わらず、他の月と同様に毎月のルーチンとして処理するのが自然なものと捉えられてしまうのである。
経理であれば3月分の支払内容は件数が膨大であるのに、4月末までに処理することが必要だと当然に捉えたり、人事であれば4月の採用者は多数に上るのに、4月の早い時期に採用手続や採用者へのフォローを全て完了させることが必須と捉えたりすると、年度末や年度始めの一定時期に業務の負荷が異様に高まることとなる。
こうして負荷が高まっているところに、長時間労働が叶わないメンバーがいると、たちまち行き詰ってしまう。(それでも無理に処理を終わらせるのだろうが…)

 

思うに、業務を年度で区切るのが必須のこととはいえ、年度変わりの負担は可能な限り緩和して最低限にとどめようとするべきではないだろうか。年度末、年度始めという時期を、「大変な時期なんだから」と安易に威厳づけて、無批判に異様な業務量を受け入れる…こうした意識をあくまで持つことには問題があるように思えてならない。

 

負担を緩和する流れとしては、やはり年度末や年度始めに膨れ上がる業務を他の月にも回してなるべく業務量の山を平たく均す、ということになるだろう。
経理の話であれば、3月分の支払内容は5,6月にも処理を延ばして行うとか、人事の話であれば、4月採用者は4月に最低限の採用手続のみ行って、その他フォローは5,6月に回すとか、年度末や年度始めに限ってはそうした特例的な扱いを認めることができないものだろうか。

 

この話も、前回と同じく威勢よく書いているものであり、何を言っているんだと思う人も多いだろう。3月4月で件数が多いとはいえ、手続が遅くなれば信用に関わる、と思う感覚もわかる。それでもここは、労働者の人道面に立ち返って考えたい。膨大な業務量に平気で晒されるというのは、日常生活の面に支障を来すのは明らかで、こうしたことを年1度とはいえ毎回続けているのはやはりおかしいと思わずにはいられない。
社会的な意識の変化によって、3月4月の業務に関しては、ある程度手続が遅くなることに寛容になる…現実的ではないように思えても、あくまでこんな社会を理想として描いていたい。