社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

保育園のお迎えに見えるパピートラック

パピートラックという言葉がある。女性が出産、育児を機に職場のキャリアパスから下りることがマミートラックで、この男性版がパピートラックとなる。

個人的な経験から、この言葉について述べてみたい。

 

この言葉を痛感させられるのが、保育園でのお迎え。自分は職場近くに保育園が多くて入りやすかったため、職場近くに住んだ上で保育園へ入れ、自分が毎日の送りとお迎えを担当することにしている。これは保育園入所の難しさを思えば、自然な流れと言えるものだっただろう。

ただその送り迎えの中で、朝の送りは父親も母親も始業時間は同じようなものなので、父親もよく担当しているのを見かけるのだが、これがお迎えとなると、母親が来ているのがほとんどであって父親の姿を見ることがほとんどない。

 

何を当たり前な、と思われるかもしれないが、よくよく考えてみたい。育児への男女協働が謳われるのであれば、まず考えられる値となるのはお迎えも父母5割ずつで担当するということである。母親の方が子供の扱いに手馴れている、子供も母親のほうになじみやすい、という点は当然にあるのだが、この理屈を込みにしても、父親の2,3割がお迎えを担当していてもおかしくはないだろう。4人に1人といったところだろうか。

 

しかし現実はそうなっていない。お迎えに来るのは母親ばかりなのだ。都合がつけばたまにお迎えに来ているという父親がいる程度で、自分のように安定してお迎えに来ている父親というのは、本当に他にいない。4人に1人なんて数字でも夢物語に感じられるほどだ。

自分1人だけ父親がお迎えをしていて母親ばかりの中で浮いているものだから、あのお父さんはどんな暇な仕事してるんだろう、なんて印象を持たれているだろうし肩身が狭い。(法定内労働の1日8時間はきっちりこなしてるんだけどねと内心…。)

他にも1人や2人、安定してお迎えに来る父親がいればずいぶん空気が変わりそうなのだが、期待できそうな兆しは見えない。

 

こんな状況を生み出す原因として、お迎えとなると始業時間とは異なり、父親は残業を見越した時間を設定しないといけないから、という暗黙の了解が間違いなくあるだろう。その感覚に基づいて、自動的にお迎えは母親が担当するということになるわけである。

そして、そんな暗黙の了解が根付いている背後にパピートラックの現象を捉えることができる。男は残業時間も常に考慮していないと出世はできないよ?、という観念が依然として存在しているのだろう。父親が残業時間を取らずに育児参加しようものなら、「責任ある仕事は任せられない」と直ちに断じられてしまう。通常のキャリアパスから外されてしまうのだ。さらには一度キャリアパスを外された以上、元通りに復活しようとしてもできないという事態にもつながる。

 

こんな脅迫めいた価値観があるのならば、父親が週末のみならず平日の常日頃から育児に携わる、という意思はまず形成されなくなってしまう。母親も半ば諦め気味に、平日の育児は全て自分が負わなければならない、と受け入れている。

実際、父親が保育園のお迎えをすることがまずないというところを見れば、やはりこうした脅迫めいた価値観が存在しているのだろうと推測がつく。これは父母お互いにとって誠に残念な事態だと思うのだが、いかがだろうか。

 

自分は行政組織で仕事をしているので世間一般のことを語るのは難しいが、せめて小さい子供を抱えて育児をしている世代については、父親母親ともに法定内労働に留めさせ、残業時間は考慮させない、という配慮を事業者側ができないものだろうか? それでいてパピートラックやマミートラックに陥らないように、育児が落ち着いた頃(小学校入学あたり)から、努力次第で容易にキャリアパスを元通りにできるという枠組みがほしい。

 

現代の社会において、少子化を改善するため出生率を上げる必要があるなら、育児への男女協働は不可欠なものだ。出産しても母親が一方的に育児を引き受けさせられるというのでは、出産する意思が社会的にいくぶん減退してしまうだろう。

また、母親を手伝うために育児参加しようとする父親に対して、組織の中で落第者のように扱うというのは明らかに不適切な考え方だろう。

小さな子供の育児が落ち着くまでは父母で協働して取り組みたい、その間はキャリアを抑えて、落ち着いたら速やかにキャリアを再開したい、こんな心理はごく自然なもののように思える。こうした心理を許さない組織、社会というのはどうにも健全なものとは思えない。

 

長々と述べてきたが個人的な話に戻すと、自分の子供が保育園を終える5年後あたりには、安定してお迎えに来ている父親が4人に1人あたりまで増える様子が見えたら嬉しい。そこに社会の価値観が変わってきた兆しが見えることを期待したいところである。