社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

「皆が管理職を目指すべき」これって日本特有の強迫観念じゃないか

 前回、普通の人が仕事の厳しさを負う必要はないということを述べた。この流れで、普通の人が管理職を目指す必要もないということを述べたいと思う。

 

 普通の人は、そもそも管理職になるうえでの資質が不足している。そもそも人の上に立てるような人間でなかったりする。こうした人には仕事の厳しさを負わせる必要はなく、一定の仕事をこなしているのならば、あとは仕事のことよりも家族のことなどを優先させてあげる、そんな配慮をするのが適切だろう。

 

 しかし日本の組織においては、そんな普通の人まで含めて皆を管理職に、と考えるような仕組みがあるのではないだろうか。だからこそ、普通の人にまで仕事の厳しさが負わされてきたのだと思う。このような意識があると、普通の人までが無理やり管理職に祭り上げられることになる。しかしそうした人に管理職の資質はないわけで、様々な能力が不足している。

 

 また、ここからは行政組織へ特化した話をしたい。皆を管理職にという意識は、必要以上にゼネラリストを生もうとする慣習を生むと思われるのだ。

 管理職は様々な視野から人を使うという立場なので、専門家であるスペシャリストとの対比により、ゼネラリストであることが求められる。すると、皆を管理職になどと考えることで、若手のうちから皆がゼネラリストを目指すように仕向けられる。

 その意識の現れとしてなのか、行政組織ではやたらと異動が多い。スペシャリストとして特定の業務に専念することをほとんど許さないかのような雰囲気があったりする。

 

 しかし、管理職の資質のない人がゼネラリストを目指すよう仕向けられても、その異動の多さを有効に活かすことはできないのがオチである。

 すなわち、異動の多さに「責任逃れ」であるとか、「業務への飽きの解消」とか、消極的な意味合いばかりを持たせるようになるということだ。こんな事態になるわけで、必要以上にゼネラリストを目指させることにはほとんど意味がないと言えるだろう。

 

 また短期間で異動できるとなると、業務への責任意識は薄れる。なら当然のごとく、マニュアルの整備も軽視される。以前に前任者のおかしな優越意識でマニュアルが軽視されることを述べたが、行政組織ではさらに短期間の異動が加わることで、余計にマニュアルが軽視されるのだと思われる。

 

 また中央省庁、霞が関での話だが、天下りなんて概念が生まれるのも、この意識が結実したものだと思っている。「皆を管理職に」なんて思うことで、ある程度までの役職が景気よく用意される。しかしそれ以上の役職はさすがに景気よく用意はできない。ある程度までの役職というのはおそらく課長までを指すと思われるのだが、課長は多くできてもそれ以上のポストはさすがに数多くするわけにはいかない、ということになる。

 

 なので、課長どまりの人が多く出ることになり、そうした人は課長以上まで出世していく人のことを指をくわえて羨むことになる。それが可哀想だから、外部の組織に相応のポストを作ってそこへ出してあげる、これが天下りである。

 出世できないのが可哀想なんて愚かな配慮があるわけであり、こんなことで多額の税金を流して外部のポストを作っているのである。そんな配慮は行わず、そのまま課長に止まらせるか、若手の出世に支障となるならば降格させるか、素直にそうすればいいのだ。

 

 しかしそもそもの問題として、「皆を管理職に」という意識のもと、それほど資質のない人にまで景気よく課長ポストを用意したのいうのが間違いなのだ。それほど資質のない人は、平社員に近いレベルへ止まらせておくべきだったのだ。

 下手に出世せず平社員レベルで止まっていれば、余計なメンツが生まれることはなかったわけであり、出世していく人に対して羨みの気持ちを持つこともなかっただろう。そうしたところにも、皆を管理職にしようとする意識の罪深さがうかがえる。

 

 以上のような事例から、普通の人まで管理職にさせようとする意識がいかに生産性のないものか、よくわかると思う。資質がないのに管理職に祭り上げられて、意識と実態に乖離を生じさせられるような残念な事態は、とにかく改めていくべきものだろう。

 

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