社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

スポーツの事例から見て取れる、暗黙知の中から形式知を整備する概念

 前回に続いて業務におけるマニュアルの話になるが、今回はより観念的に述べられるものとして、考察を進めてみたい。

 暗黙知形式知という概念がある。暗黙知は言葉で表すことのない、表すことのできない知識のことである。そして形式知が言葉に表せる知識のこととなり、言葉に表して共有できるようにするものとなる。そしてマニュアルを作成するというのは、形式知として言葉に表す作業のことに他ならない。

 

 自分はマニュアルの必要性の話で述べたとおり、マニュアルの整備には絶対的な必要性を感じている。マニュアルが軽視されるという事態には勘弁ならぬものを覚える。

 しかしこのことへの反論として、マニュアルに頼ってしまうと自発的にものを考えられなくなる、というものがある。つまり、形式知に頼ると暗黙知への感覚が損なわれる、ということだ。

 

 ただ自分はこの意見には毅然と反対したい。その根拠として考えているのが、スポーツの話だ。wikipediaを参照すると、暗黙知の例として自転車の乗り方が挙げられている。そりゃそうだとすんなり納得できる。自転車の乗り方などは感覚で覚えるもので、言葉に表して教えられるようなものではないだろう。そしてスポーツも同様の話となる。スポーツは感覚で覚えるもので、この感覚が研ぎ澄まされている人が才能のある人となり、プロ選手にもなっていくわけだ。

 

 しかし、そんなスポーツの世界にも指導者という存在がいる。もし全てを感覚で身につけていくようなスポーツであるなら、指導者の入り込む余地はない。本人がただ自分の考えるままに練習していくのみとなる。現実にそんなことはないわけで、どんなプロ選手でも指導者との出会いがあったことなどが語られている。

 

 おわかりだろうか。指導者により教えられることがあるというのは、「形式知」の部分が存在するということなのだ。暗黙知の塊であるようなスポーツの話でも、形式知は存在するのだ。いい選手がいい指導者であるとは限らないという話があるのも、暗黙知の吸収には長けているが、それを形式知に落とし込むのは不得手な人もいるということだろう。スポーツの話でも、形式知を整備していくことに重要性のあることがよくわかる。

 

 となると、一般企業における業務において、暗黙知を重視して形式知を軽んじるという姿勢の根拠が、きわめて怪しくなってくる。スポーツの話ですら形式知が入る余地があるのに、一般的な仕事であれば、その余地はずっと広大に存在するのではないだろうか。そこで形式知に頼るな、暗黙知を重視しろ、と安易に考えるのは明らかに間違っていると思う。

 

 「なんとなくわかれ」「言わなくてもわかるだろう」といった理屈も、暗黙知に頼る 姿勢の現れである。これも以前に述べたが、この理屈は濫用されることがある。10のうち5くらいしか説明していないのに、残りの5を自分で補え、なんて暴論が持ち出されるのだ。こんな話も、暗黙知への依存、形式知の軽視という間違った心理から来るものなのだと思う。

 また、「会社の他の人が何の業務をしているかわからない」こんなよくある話も、おそらく形式知を軽視してきたゆえの結果なのだと思う。皆がなんとなくで仕事をしていて、マニュアルの形でその内容を共有することがないから、誰がどんな仕事をしているかがわからなくなってしまうのだろう。

 

 一般的な組織であれば、形式知化はややこしい、面倒くさいなどと簡単に諦めず、じっくりと整備していくことがきわめて肝要だろう。スポーツの話との対比で、そのことがよくわかると思う。

 どんな業務内容でも、知識にできることがあるならそうしたほうがいいに決まっている。自分としては、形式知を重視すると暗黙知への感覚が損なわれるという理屈は、形式知化から逃げるための言い訳に過ぎないと思っている。

 日本においては形式知が軽視されてきた、ということはよく言われるが、こうした心理はとにかく改めていくのみだろう。マニュアルの整備不足によって後任者が馬鹿を見る、組織の業務効率が落ちる、こんな事態がなくなっていくことを望むばかりだ。

 

「暗黙知」の共有化が売る力を伸ばす―日本ロシュのSSTプロジェクト

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