社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

資料のミスをここぞとばかりに叱責する、残念な人たち

 これは仕事上の話だが、組織における決裁では上長への段階的なチェックが行われていくことになる。

 文章の形式など実務的な部分については、幹部層がおよそチェックを入れるところではないのだけども、自分の1段上の上司あたりであれば、ここのチェックを行うことになるだろう。部下が文章の形式などを整えて資料を一通り作成して、上司がそこに漏れがないか確かめる、それが決裁の初段階であり、多くのエネルギーが注がれるところになる。

 

 しかしそこで、上司の思慮の浅い心理が入り込むことがある。部下の資料に漏れがあった場合、ここぞとばかりに攻撃性を示すことだ。「自分はこんなことに気が付くのに、気付かないお前は能力が低い」と言わんばかりの態度で、である。自分の経験ではこうした態度の露骨なものを見たことはないが、組織によって上司の攻撃性が強いところであれば、こうした態度が生じているであろうことは容易に想像がつく。

 

 部下は、資料を一通り作成するうえで、基本事項の全体へエネルギーを向けることになるわけで、一部に漏れが生じることも時には生じる。そしてその漏れを食い止める必要があるため、上司が確認を行う。これが決裁のエッセンスだ。決裁の性質上、部下が始めから完璧な資料を揃えることは想定していないのである。

 

 しかしあろうことか、一部に漏れが生じたことに対して、部下をここぞとばかりに叱責するような上司もいるのだろう。部下の明らかな怠慢であれば叱責もやむなしなのだが、そうでない場合に叱責が行われるのは気分の悪いものだ。部下や若手であれば上司から偉そうな叱責をされることも甘んじて受け止めろ、という言葉も安易に出てきそうなところだが、こうした上下関係論に何らの生産性はないだろう。

 

 こうした叱責を加えることは、部下が始めから完全な資料を作成することを想定しているかのようであり、そもそもの決裁の概念を否定することにもなりかねない。漏れを発見したら、粛々とそれを指摘すればよいだけなのである。基本的に感情を盛り込むところではないのだ。上司から余計な感情を盛り込まれると、部下はそれを予防するために、余計な手間をかけて資料を作成するようになる、ということもあり得る。生産性が落ちることは明白である。

 

 あるいは部下と上司の間でなくても、部署間で資料を回していく際にこうした心理が生じるかもしれない。原案に対して、チェック担当の部署がその漏れを見つけたときに、原案を作成した部署へ偉そうに指摘を加える…といったこともあるのだろう。部署間でこうした感情が生じていると、先の部下と同じで原案を作成する部署の動きが慎重になってしまい、組織全体のスピード感が失われるということにもなりかねない。

 

 上司にしろ、チェック担当の部署であるにしろ、それはチェックを行うという立場にあるだけで、自身の能力が高いというわけでは必ずしもないのだ。そこで能力差を主張するかのような偉そうな態度を取るのは、きわめて子供じみている。

 マニュアルをめぐる前任と後任の話でも述べたが、立場の違いを能力の違いに脳内変換しているような人は、社会において時として見かける。こうした思考はまことに残念なものであり、なくなっていくことを望むばかりだ。

 

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