歪んだ機会均等
近年は、従来では狭き門であったような高度な資格、地位に対して、一般市民にも広く門戸を開いてあげようよ、という心理が目立っているような気がする。
例えば、司法試験の合格者増加、大学院博士号の取得者増加などがその心理の典型的なものであるように思う。
しかし、一般市民への門戸を広くするという「機会均等」は、度が過ぎることもあり、能力の高くない一般市民へも高度な資格、地位を与えたりする。
こうなると、「能力は高くないのにプライドは高い」という構図ができあがってしまう。
するとどうなるかというと、能力が高くなく社会的な評価も高くない、それゆえ高度な職業に就けるわけではない、にもかかわらずプライドがあるために中度以下の職業に就くことを拒否するという、率直に言って「嵌められた」ような状態になってしまう。これで食いっぱぐれる弁護士や、高学歴ワーキングプアの完成と…。
こうした表現で茶化されることも多いが、社会が個人を「嵌める」ような事態は憂慮されるべきものだろう。
また、能力に不相応な資格、地位を与えることは、その資格や地位を得るまでの過程の時間すらもはっきり言って無駄になってしまう。
なので、そんな時間を使うよりは早く社会に出て収入の基盤を得て、早く家庭を築く、ということも求められる。
近年では大学進学率も50%ほどと高い値にあるが、真に大学へ進学すべき層は、個人的見解だがその半分程度なのだろうと思う。
大学を出て社会へ出るのが20歳代となる層が増えることで、その分家庭を築く年齢も遅くなる。これは間違いなく晩婚化、少子化に寄与することになる。
高度な資格の取得後の就職時に苦しむ、高度な資格を取得するための時間が無駄になる、という2つのデメリットをもたらす点で、狭い門戸をやたらと広げようとする「歪んだ機会均等」は不適切なものであると思うところである。