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社会を変化させる社会心理論・組織心理論の考察記

行政職員の筆者による、社会を変化させるような社会心理論、組織心理論がいかなるものか、その考察内容を綴ったブログです。

震災時に現れる不謹慎厨

さて再び大規模な震災が起こってしまった…それだけでも忌まわしい災難であるのに、東日本大震災時に続いて「不謹慎厨」なる者の存在がクローズアップされている。

 

この不謹慎厨、テレビやネットの意見を見る限りでは、その心理パターンとして”被災者に寄り添いたいけど自分は何もできないもどかしさを抱えている、そこへ周りに被災者へ寄り添う気持ちの見えない行動をする者がいたら許せない”といった解釈を当てることを今回は目にすることが多い。

 

しかしこの解釈、ずいぶんと好意的なもののように個人的には映る。

たぶん、不謹慎中に「被災者に寄り添いたい」気持ちなんて存在しないのではないだろうか。

ただただ、震災を利用して、日本古来の"喪に服す"という理屈を利用して、周りの楽しみを奪いたい、足を引っ張りたいという意識をむき出しにするだけの人なのだと思う。

何の好意的な解釈もできない、ひとえに残念な人たちなのではないだろうかと。

 

阪神大震災時では不謹慎厨という心理などはほぼ存在しなかったように記憶しているが、東日本大震災時にはネット社会が普及していたから、こういう心の根底に存在しうる情けない心理が表層に現れる機会が増え、クローズアップされてきたのだと思う。

今回の熊本地震でも続けて、社会の足を引っ張るこんな残念な考え方が取り上げられたわけだが、こんな心理は今後一切語られることのないように期待したい。

 

「保育園落ちた日本死ね」について雑感

雑感をさらっと書いてみるので、甘い部分はあるだろうと断りを入れたうえで…

 

保育園の問題については、一度日本中の0,1歳児を持つ親へ一斉に照会してみればよいのではないだろうか。もはや、部分的な国勢調査とも言えるような形で。

そして、潜在的なものも含めた、正確な待機児童数を割り出す。

よく言われる待機児童数は、実際に保育園の入園申請をしている数から割り出されるので、働いていないので入園申請もしていないが、入園できるのなら入園させて働きたい、という潜在的な需要を正確につかもうとする試みには、大きな意義があると思う。

 

また、そうして正確な待機児童数を割り出し、保育需要の総数を市町村ごとに明確に把握することができれば、必要な保育園数、保育士数もおよそ正確なものが表れてくる。

 

加えて、今度は保育士資格を取得している方へ、現在保育園で働いているかどうかを問わず、全員に保育士の待遇に関する照会を行ってみる。

(保育園には無資格の補助者もいるが、無資格の方々に関して統計を取るのは難しいかもしれない。なので資格者のみを対象に。)

 

そして、親の保育需要に対して必要な保育士数を考慮して、現在の待遇では具体的にどれだけの保育士が不足するのか、待遇をどれほど上げれば保育需要を賄う保育士数を確保できるのかが見えてくるのではないだろうか。

 

(保育園を開設する立地の問題については、これはどうしても各市町村で事情の異なる幅が大きいので、省略させていただく。)

 

まあ要するに、0,1歳児を持つ親と保育士資格取得者に対して、一度大がかりなアンケートを取ってみてはどうか、というシンプルな主張なわけで…

今までの保育園に関しては、「母親が家に居て面倒を見ればいいだろ」「保育士は子供と遊んでるだけの職業」というなんとも残念な偏見がはびこっていたわけで、そんな経緯で親と保育士側の潜在的な意思についても調査を行ってこなかったように思うので、一度、国家主導でこんな大がかりな試みを行ってみてもいいように思う。

それだけで保育に対する物の見方が、社会的に改まっていくのではないだろうか。

 

女性ばかりに家事を任せようとする心理の原因

ふと雑感程度に思いついたので述べてみたい。

 

おそらく、この問題には家電などの技術を軸として考えることができると思う。

家電の技術が展開されていなかった時代においては、家事というものは

1日中かけて毎日行うだけの仕事量があったというのは想像できるだろう。

 

そのため、女性がこの役割を一手に引き受けることでも、十分な充足感が

得られたのではないかと思う。家電によって機械的に行う家事に比べ、

きっと作業のコツであるとか、自分の感覚を磨いていく場面も多かったのだろう。

そこで、男性が外で働いて女性は家事を一手に引き受ける、そうした概念が

本質的に形成されていったのではないかと思う。

 

それが家電の技術が大きく展開されていくことで、家事は急激に機械的な性質を得て

その作業を引き受けるだけでは、女性は十分な充足感を得られなくなった。

だからこそ、現代においては女性も家事だけでなく社会に出て働くことを

欲するようになったのだろう。

 

しかし上記で述べた、人間社会の本質の部分から考えると、女性は家事にのみ

専念しておればよい、そうした概念が根強く残ってしまうのだと思う。

 

ただ、人間社会の満足感を高めるために家電の技術が展開された、これは

紛れもない事実だ。そのことで女性が家事への専念では満足できないようになり、

社会で働くことを欲するようになったのならば、それは尊重されるべきことだろう。

 

家電の技術が発展した以上は、という理屈をベースに据えることで、

女性に家事へ専念することをいたずらに求めてはいけない、

ということの正当性がわかるのではないだろうか。

ラグビーW杯のロゴについて

headlines.yahoo.co.jp

 

素人の感覚だけれども、個人的には素晴らしいロゴだと思う。少なくとも、デザインの細部について詳細な議論を展開することができるほどの。

オリンピックのエンブレムは、デザインの細部について議論することができないほど、枠組やコンセプトからして不評を買っていたし、さらには盗作疑惑までついて回ってしまった。

なぜラグビーでこれほどのデザインができて、オリンピックであのようなデザインが登場してしまったのだろうか…。

 

やはりその理由としては、報道やネットで衆目の一致するところだが、デザインの選考で出来レースが行われていたこと、これに尽きると思う。このことは、出来レースやその経緯として生じている馴れ合い、身内びいき、内輪ノリといった精神がいかに粗悪なものを生み出すか、よくわかる話だったと思う。正直なところ、男子の100m走11秒台のランナーを「日本代表です」と言ってオリンピックへ送り込むようなものだったんじゃないだろうか。タイムが明確に現れる陸上ではありえないことなのだけども、そのようなことがオリンピックのエンブレム製作の場で起きてしまったわけである。

 

社会人はもちろん、学生といった立場でも起こりうることとして、馴れ合い、身内びいき、内輪ノリといった精神は今後の社会全体において、削減していくべきものだろう。

 

武藤議員の会見に見える、要職者が辞職から逃れようとする理屈

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000017-kyt-l25

 

取り沙汰されている武藤議員の問題について…事実関係が十分に確認されていない点はあるにしても、国会議員が投資詐欺だなんて、直ちに辞職してしかるべき問題だと直感的に判断できると思う。しかし本日の会見によると、どうも辞職はしない模様で…。

さらに唖然とさせられるのが、出てきたこの発言。

 

「失った信頼を取り戻すため引き続き取り組みたい」

 

こんな理屈を耳にする機会が増えたのは、気のせいだろうか。

サッカー代表監督の任命責任の話や新国立競技場建設費問題の責任もそうだが、なぜか最近は何か重大問題が生じたときに、要職に就く人が辞職して責任を取るということが少ない気がする。そしてお決まりになっているのがこの理屈。

どんな重大問題を起こしても自分には挽回を目指す権利があり、辞職を求められるいわれはないというあざとい意思が込められているのが透けて見える。自分が要職に就くことは(任期中なら)無制限に認められる、とでも言わんばかりの理屈なのだ。

 

要職というのは、「重大問題が起きた際には責任を取って辞職すること」が就任条件の1つとして備えられているとは言えないだろうか。問題を起こした本人は辞職して、別の頭によって問題の解決を目指すというのがしかるべき考え方だろう。

 

こんなあり得ない理屈を見ることが増えたのも、現代の日本には諸問題が山積していて、問題が起きてもいちいち責任者を代えていられなくなった、ということなのだろうか…と先が案じられる。

 

五輪エンブレムの盗作疑惑をめぐる「大人の対応」

東京オリンピックをめぐるお粗末な事態がとにかく続いている。日本人がこれほどまで精神的に弱くなったのか、あるいはもはや誰かが悪意を持って仕向けているんじゃないかとまで勘ぐりたくなるほど…。

その中で、今回は五輪エンブレムの盗作疑惑をめぐる話から自分の考えたことを述べてみたいと思う。

 

エンブレムの盗作疑惑は、デザイナーの佐野氏による数多の盗作疑惑、さらには盗作と本人が認めたものまでに彩られていて、ネットの喧騒が尽きないものになっている。

アメリカのデザイナーの盗作であることが明白となったものは、ネットでの追及を発端にしたものだ。

該当するアメリカのデザイナーは2名いて、1名は明らかな盗作により利益を得ていたのなら法的手段を検討する、と答え、1名は明白な盗作ではないから法的手段までは検討していない、と答えていた。

 

ここで気になったのは、法的手段までは検討していないと答えたデザイナーに対して、「大人の対応」と称賛する反応があったことだ。なぜに大人の対応なのだと?

他にも、ベルギーの美術館ロゴに関して、使用差し止め請求を行っていて見苦しい、対応の仕方が子供だ、売名だ、なんて論調も存在していたのは大いに疑問を感じた。

 

大人の対応という言葉は、スポーツで使われることが多い。プレー中に挑発してきたり感情的になってくる相手に対して、自分も感情で応酬するのでなく冷静に相手をいなすことをほめる言葉、と言えるだろう。こういうときは我慢することが大事なのだということであって、全くもってそのとおりである。

 

しかしデザイナーの件はどうだろうか? 相手が明らかな盗作をしてきているわけだ。

これに対して、法的手段を取らず冷静に相手をいなす…なんて態度が大人の対応なのだろうか? それは単なる泣き寝入りだろう。

明白な盗作はされていないから法的手段は取らないとしたデザイナーも、あくまで明白な根拠までは存在しないから法的手段は取らない、ということなのだろうと思う。

明白な違法行為を行ってきている相手に対しては、法的手段で対応するのは当然のことなのだ。これを我慢することは大人の対応でも何でもない。

 

また性懲りもなく日本人論となって申し訳ないが、法的手段を取らないデザイナーに対して大人の対応、なんて言葉が出るところに、日本人の「我慢の美徳」の精神が垣間見える。

相手が自分に何をしてきてもひたすら我慢するのが大人なのだ、なんて理屈は絶対に成り立たない。このことは覚えておきたい。

 

高圧による自滅

 タイトルの言葉は、高圧的な態度を取っているといつかはしっぺ返しが来るという、いたってシンプルだが普段よく見られる心理を表している。この言葉を実感させられる場面として、以下の2つを挙げてみたい。

 

 まず、仕事と育児を両立する女性に対して、育児をすることになると仕事は諦めないといけない、諦めるべきだ、という考えが高圧的に取られることがある。そういうことを言われていると、女性としては、なら子供を作るのを止めておきます、という考えにもつながるだろう。そうした考えが支持されてしまうと、出生率が低く抑え込まれるのは自明の話となる。

 ここで、昔の女性はそうじゃなかった、現代の女性はわがままだ、という話を持ち出すのもナンセンスである。女性は家庭にこもっておればよい、という考え方がいつの時代も通じた普遍的なものでないのは明らかだろう。

 また、仕事と育児の両立を容認するとしても、旦那は育児を手伝わないぞという心理を持つことも高圧さの典型である。こうした考えで妻に育児を押し付けてばかりでいると、熟年離婚という事態を招く恐れがある。やはり自滅である。

 

 前にも書いた、沖縄基地にかかる沖縄への軽視もこの理屈につながるだろう。自国の領土であるにも関わらず離島や辺境地への軽視を続けていると、いつかは国家からの離反を決断されて他国へ編入され、その結果自国の領土が縮小するという致命的な事態を招く…なんてことも起こり得るんじゃないかと。

 「どうせ離反するような度胸はない、軽視を続けてしまえ」なんて見くびりや思い上がりを持つことはやはり危険だと思う。

 

 もちろん、高圧的な態度を取り続けることの危険性は、局面のところでは認識されているようにも感じる。新国立競技場の建設が白紙に戻ったのも、さすがに民意の反発が危険水域に入ってきたからだと思う。現代の日本では、独裁が行われたり、合わせて民意もおかしな方向へ振れてしまうようなことがないのは、安心できる点だろう。

 とはいっても、時代環境の変化でいつ価値観が逆行してしまうかはわからない。そこへ備えて、「高圧による自滅」この理屈だけは常に頭に入れておきたい。