社会的な心理考察記

社会に働く心理について考察したブログです。

絶歌と新国立競技場に見る不条理

 最近社会を賑わせているこの2つの話。何気に不条理の極みが現れているものとして…以下概観したい。

 

 絶歌については、何より商業出版であることがまずい。
 これまでも様々な犯罪者の手記というのは出版されてきたみたいなのだが、それが商業出版であることのまずさが、今回の件であぶりだされた様に思う。
 犯罪者の心の内を見ることに社会的な意義があると判断されるのであれば、監察官や犯罪心理学者が日々の聞き取りを行い、その内容をまとめたものを無償で一般公開するという仕組みにはできないものなのだろうか。それか、話題に上がっているサムの息子法の適用でも構わない。
 とにかく、商業出版であることが話を歪なものにしていて、遺族をいたずらに傷つけることになる点で、強制的な差し止めが可能であっていいと思う。
 それでいて出版社の強行(凶行)がまかり通るのは、どう考えても「不条理」だ。擁護のしようがない。

 

 そして新国立競技場。この話もひどく失望させられる。
 どう考えても予算が不足しているのに、なぜ従来ではありえないような巨額の建設費が承認されてしまうのか…。こうしたハコモノには、計画段階では計画者の見栄だメンツだなどとの批判が加えられても、完成したらしたで市民は喜ぶものですよ、という側面は確かにあるのだが、今回だけは建設費が巨額過ぎる。そうした側面の効果を打ち消して余りありそうなほどに。。
 これだけの巨額の建設費が強行(これも凶行)して承認されてしまうというのも、
どう考えても「不条理」だ。これも擁護のしようがない。

 

 さらに思うのが、これほどの露骨な不条理は、たぶん自分の生きてきた記憶では
聞いた覚えがない気がすること…。
 日本の危機的な財政状況や社会的な閉塞感を原因として、段階的に社会に穴が開いてきているために、そこから不条理が噴出してきているのかと…そんなイメージが思い浮かんでしまって末恐ろしい。
 こうした不条理には社会の正常なコントロールが効いていないわけで、そんな話が
頻繁に上がるようになれば、民主主義も何もあったものではなくなるだろう。

 

 まあ、こうした不条理は社会の歴史上で考えると何度かはあったもので、それに付き合いながら社会が進展していくほかない、と考えられるようなものであればいいのだが。。先行きが心配だ。

 

安保法制にかかる沖縄への心情について思うこと

 自民党の勉強会で、百田尚樹氏らをはじめえらく沖縄を侮蔑する発言が続出していることについて…。きわめて政治的な話なので突っ込んだ話はできないが、一市民として思うことを。

 

 単純な話、一市民としても観光地としての沖縄を思う際、綺麗な海とか食べ物とか、沖縄に対して楽園的な幻想を抱くばかりであると…この話題を通じてそう気付かされたのだが皆さんはいかがだろうか。

 首里城などの歴史建造物へ関心を寄せることはあっても、戦争に係る歴史について触れることがほとんどないように思う。もしかすると広島や長崎でそうした話は一杯だからなのかもしれないが、沖縄は日本で唯一の地上戦が行われたという意味で、積極的に関心を持つべきだろう。しかし沖縄と言えば海だ食べ物だとばかり…。

 

 一般の観光客としても、沖縄のそうしたシリアスな部分には触れようとしない姿勢を考えると、本土の人間の意識というのは戦時中から変わっていないんじゃないかと思わされる。

 本土の人間がいつまでもそうした意識でいると、沖縄はいつか中国の属国になって日本へ仕返しをするのではないかとさえ言われている。右翼的な発想はそんなところまで行き着くものかと驚かされるものだが、島しょ部、離島といった地域の事情をここまであっさり切り捨てようと考える時点で、発想が右へ偏ることの恐ろしさを感じさせられる。

 

 まあ、この自民党の勉強会自体へは処分が与えられたことで、暴走を自制する意識は感じられた。最終的に沖縄基地を県外へ移設するという構想は難しいとしても、沖縄への配慮は慎重に行っていくべきだとは思う。基地問題に反対する沖縄に対して、右翼的に横暴な批判を加えることは慎むべきではないだろうかと。

日本的労働におけるバカンスへの渇望

 日本の労働者は、まず欧米のバカンスのような長期休暇を満喫することはない。そしてそれが社会常識のようなものになっていると思われるのだが、それは本当に常識として受け止めるべきものなのだろうか。

 

 日本では、様々な時間を満喫できるのは学生までだぞ、ということがよく強迫的に語られる。確かに自分も、大学4年生の終わりには、もう学生のようには楽しめないなと寂寥感を覚えた瞬間がある。そして社会人になってからはそのとおりに、旅行は頑張っても1週間行ければいい、という状況に置かれている。しかもGW、年末年始などの連休期間の混雑をぬって。

 学生のように、夏休みや春休みで混雑していない期間で2,3週間の旅に出るということは「無理」なのだと、深層心理のレベルで刷り込まれている。次に2,3週間などの長期休暇を取れるのは、もはや仕事をリタイアした60歳頃の話なのだと。(60歳台では体力がもたないというオチまでついて。)

 旅行を十分に満喫できるのは学生の期間に限られるなんて、これは誠に残念な話だと思う。

 

 しかし欧米諸国では、一般的な労働者も2,3週間のバカンスを取ることも多いと言われる。年に1度、2,3週間の休みが取れることは何と素晴らしいことかと思う。日本人としては想像しただけで胸が躍る気持ちになる。

 年に1度も長期休暇を取れるのであれば、会社の中で閉鎖的な価値観に縛られるということも、なかなかに軽減できるんじゃないだろうか。日本の組織においても、ゆくゆくは絶対に真似すべきものだと思う。

 

 しかしここまでは、未婚の若者や子供に手がかからなくなった中高年の人を前提に話をしてきた感がある。子供のいる既婚者については、バカンスへ行っている間子供はどうするの、と言われれば耳が痛い。

 ただシンプルに考えて、バカンスへ子供も連れていけばいいわけである。子供の都合に合わせる必要があるとしても、夏休みといった長期間の休みもあるのだから、そこに合わせてバカンスを取ればいいと思う。(夏休み期間全体がバカンスで混雑するということにはなるが。)

 

 さらに、仕事の都合でそれができないという親についても、学校側の配慮で子供の長期休暇を認めてあげてもいいんじゃないかと思うところだ。

 横並びが大好きで同調圧力が半端ないという日本人の性質上、子供が所定の休み以外で長期休暇を取ろうものなら、たちまち学校では村八分の扱いを受けることが明白という問題はある。

 しかしこの考えも、子供とはいえ狭量なものであるわけで、どんな親にもバカンスを取得させることを社会的な命題としていれば、子供の都合もそこへ合わせることが社会的に認められないものだろうか。学校側としても、子供が病気怪我などで学校に来れない場合にはその期間のフォローをするわけで、親の都合に合わせて長期休暇に出ている子のフォローだってできないものだろうか。

 

 子どもの長期休暇取得も含めて、日本においては現状からほど遠いように感じられる話であるが、バカンス制度というのはぜひとも実現してほしいものだ。

  

観光大国フランス ―ゆとりとバカンスの仕組み―

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「お客様は神様です」は全くもって誤った使い方がされている

 日本では、「お客様は神様です」という言葉がよく使われる。商売をする者にとって、お金を払ってくれる客は神様のようなものという意味合いであるとして、一般的な理解が定着しているだろう。しかしこの使い方、日野瑛太郎氏の書籍で取り上げられていたが、全く誤ったものなのだ。

 

 この言葉は、お客様は神様だから店側は何でも言うことを聞け、と客側が横暴を振りかざすことにつながりやすいものだが、これが決定的に誤っているのである。

 どうやら、舞台で演じる者はお客さんが神様だと思って真摯に演じよ、というものであるらしく、一般の店においてまで客が神様になるなんてことを全く想定していないのだ。あくまで「舞台で演じる者」に限った話なのである。一般の店で働く人に対してまでこの理屈を用いるのは、ただの濫用でしかないのだ。

 

 確かに、一芸を披露してそこで客側からお金を払ってもらうという立場であれば、それは客を神様と思うくらいの真摯さが求められるだろう。しかし一般の店は、商品やサービスを提供すれば、お金を払ってもらう客に対しての義理は尽くされているのだ。

 もちろん、最低限の義理を尽くすだけでは味気がないので、店側が自発的にそれ以上のサービスを行うということはあるだろう。しかしそれはあくまで自発的なものであって、客側が横暴にもそれを求めるということはあってはならないのだ。

 

 以前に日本人の対応圧力の強さについて書いたが、「お客様は神様です」という言葉が生まれたときに、それを対応圧力の道具としてこぞって利用しようとしたわけで、そんな日本人の心理がただ残念なものに映る。

 

「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)

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有給休暇の買い取り制度には危険がつきまとう

 この話は、日本において有給休暇の取得率が低い現状において、しばしば提案されている。有給休暇に係るアンケートが実施される段においては、対策案において上位にランクインされていることも多い考え方だ。しかし、脱社畜ブログでも取り上げられていたが、個人的にはこの制度は危険であるように思う。

 というのも、有給休暇を買い取ってもらうことで基準以上の給与を得られるならば、労働者はそれを基準に考えてしまうことが考えられるのだ。やはり、最大で得られる給与というものがあるならば、それを基準にしたくなるというのが人間心理だろう。

 

 基準以上に得られる給与と言えば、現状でも残業代がこれに該当する。自分の周りでも、自身の給与について残業代を前提にした額を話にする人は多い。本当に基本給から高給取りなのかもしれないが、およそ給与自慢をしてくる人は、残業代を込みにした額を言っていることが多い。

 自分としては、残業代はイレギュラーなものであって、これを前提にするのは適切なものでないと思っている。だいたい、残業代はワークシェアリングの概念に反していて、1人が基本給と残業代をせしめるのではなく、もう1人雇用を増やして2人で分け合うのが適切だというのはよく言われる話だ。

 

 少し話が逸れたが、残業代ですらそれを前提にした給与の計算がなされやすいのだから、有給休暇の買い取り制度があれば、なおのことそれを前提に給与の計算がなされることが見込まれるのだ。給与自慢をする日には必須のものとなる。

 そう考えると、有給休暇の買い取りの制度があるというのは、有給休暇の取得率を絶望的に押し下げる結果になるだろうという想像がつく。有給休暇は取れないものと諦めた上での制度設計なのだから、それは根本が誤っているのだ。

 

 さらには、より悲惨な事態も想定される。有給休暇の買い取りで現在の水準より高い給与を得られればいいのだが、その状況はいつまでも続くとは思えないのである。これも脱社畜ブログで述べられているのだが、いつかは使用者側が労働者の賃金を、有給休暇の買い取りコストも含めて設定しようとすることが想像されるのだ。単純に給与が圧縮されるわけで、有給休暇を全て買い取ってもらって始めて、以前の水準の給与が得られるということにもなる。なんともおぞましい話だ。

 

 有給休暇の買い取りにはこのような、労働基準法の概念を覆しかねない危険が秘められているわけで、その認識が広まっていってほしいと思う。アンケートでこの制度への要望が上位に来るということは、ゆゆしき事態なのだ。

 

遠慮せずに休んじゃいけないの?: 年次有給休暇 休みづらい問題 (労働時間・休憩・休日ターンアウトマガジン新書)

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「給与を削減するといい人材が集まらなくなる」って乱暴な話じゃないか

 大ざっぱではあるが、タイトルの件について雑感を述べてみたい。

 

 様々な組織において、経営者が従業員の給与を削減するという流れが生まれることはあると思う。特に行政組織に対しては、民間水準に比べて給与が高い、削減せよ、ということがよく言われる。そしてその反論として、「給与を削減するといい人材が集まらなくなりますよ」という理屈が用いられる。

 …正直、身も蓋もない理屈だとは思う。が、ここへさらなる反論をするのは難しいようにも感じる。たしかに給料を減らされたら、その仕事に就く人が減ってしまうよね…とすんなり納得してしまう。

 ただこの理屈には、1円たりとも給与を下げさせないという乱暴な感情が込められている感があるのは確かだ。なので、あくまで身も蓋もないように感じる、その感覚へ主眼を置いて考えてみたい。

 

 やはり、給与を削減すると一口に言っても、本当に人材が集まらなくなったり人材が逃げてしまうような水準と、それくらいでは人材が減ったり逃げたりはしない水準という、2つの水準があるのだと思う。そこで2つの水準を区別せずに、少しでも給与を削減すると前者の事態に陥りますよ、と一律に語ることには、脅しをかけるような意図があるのだろう。その部分で身も蓋もないように感じられるのだと。

 となると、給与の削減でいい人材が集まらなくなる、この理屈は必ずしも正しいものではない。ある程度の給与の削減では人材が減ったり逃げたりすることはないわけで、その削減幅までは給与を減らすことはできるはずだと、そうした反論をすることができる。

 

 ただ難しいのが、「ある程度の」給与の削減という、その一線がどこにあるのかがわからないことだ。これを明らかにするには、壮大な社会実験が必要になるだろう。

 ここまで給与を下げても人材が減ったり逃げられたりはしない、これ以上給与を下げると人材が集まらなくなったり逃げられたりする、社会実験が実現すればその一線の目安をつけることができる。しかし現状ではそのような社会実験は見当たらないため、そこに根拠を求めて冒頭の理屈へ反論するのは難しそうだ。

 

 しかし少なくとも、給与の削減でいい人材が集まらなくなるという理屈は、先に述べた「一線」を考慮していない乱暴なものであることは明らかであって、そのことを指摘すればよいのかと思う。

 

給与削減・退職金削減に備えた公務員のためのお金の貯め方・守り方

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理想を追求しすぎるから、逆に日本人は英語ができなくなる?

 前回述べた、「理想を追求して目先の堅実さを失う」という心理は、日本人の英語に対する姿勢で如実に現れているなあということも常々思う。

 日本人は英語の文法などにこだわって実践的なスピーキング、ヒアリングができない、ということはよく言われる。これは、そのまま冒頭の心理に当てはまるんじゃないだろうか。文法まで正確に捉えた英語を話そうとして、それが容易なものではないために諦めてしまい、逆に簡単な会話からも逃げてしまう、そういうことなんじゃないだろうか。

 

 外国の方は、少しでも洗練された場にいる人であれば、まずもって英語が話せる。 こちらとしても、英語がわかる前提でもって会話を始めようとする。

 しかし一方の日本人はどうだろうか。社会において一流の地位にある人ならばおよそ英語は話せるだろうが、多少洗練された場にいる程度の人は、およそ英語が話せないと言っていいだろう。

 

 しかし、英語圏の出身でない方の英語を聞いていると、文法を無視しているということはないが、本当に簡単でわかりやすい単語を主に使っている。そうした方からのメールの文章などを読もうものなら、本当に中学生の教科書のレベルと言ってもいいくらいだろう。

 

 だから、日本人の英語ができないというのは、ただ単純に意識の問題なのだと思う。正確な英会話をするという理想を追求して、それができないから、簡単な英会話をするという目先の堅実さからも逃げてしまうんだと思う。

 とにかく、深く考えずに簡単な英会話から始めればいいのだ。その意識が幼少期教育から育まれていくことを切に望む。

 

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

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